風鈴草の咲く丘で
流瑠々
【第1話】春の丘で、はじめまして
俺の名前はアレン・カーター。二十歳。
特技は転ばずに一日を終えること──
と言いたいところだけど、昨日は井戸端で足を滑らせて膝を打った。
先週はオノを持てば折り、パンを焼けば炭になる。
家族会議の結論はいつも同じだ。
「アレン、お前は器用に失敗する天才だな。」
褒められてるのか?
いや違うな。そんな俺にも、ひとつだけ見てみたいものがある 。
十年に一度だけ咲くという幻の花、風鈴草。
風に揺れると鈴みたいに鳴るらしい。
恋が叶うだの、願いが届くだの、伝説は山ほどある。
どれも眉唾かもしれないけど、何年に一度って響きに弱いんだよな
季節は春のはじまり。
芽吹きの匂いとひんやりした風に背中を押され、
俺は町はずれの丘を登った。丘から見た街並みは風見鶏がくるくる回って、
家の煙突から白い煙がのぼっている。のどか。眠い。帰ってもいいか?
いや、ダメだ。十年だぞ十年。
──で、頂上に着いた結論。
「……咲いてねえ。」
新芽の緑はきれいだ。鳥はさえずる。空は高い。肝心の花は、ない。
十年って、今日じゃなかったか? いや、誰も今日とは言ってない。
俺が勝手に今日だと決めつけただけだ。
うん、知ってた。知ってたけど、 心が追いつかないやつだ。
「はぁ……せめて、何かレアな出来事の一つや二つ……」
ぼやいた瞬間、視界の隅に「レアすぎる出来事」が現れた。
白い日傘。春の陽射しの中、ひとりの少女が傘をさして立っている。
風にすそが揺れて、髪が光を拾ってきらりとまたたいた。
頬は薄紅。身につけている服は、この町の仕立てとは縫い目も雰囲気も違っていて、
どこかこの世界の外のような気配をまとっている。
なにより、彼女はそこに立っているだけで、周囲の空気ごとやわらかくしてしまうような、
不思議な異質さを帯びていた。
数秒、いや数十秒、俺は言葉を失った。
──落ち着け、アレン。初対面で固まるのは失礼だ。
まず挨拶。
ついでに鼻の下を伸ばすな俺。
「……なんで、こんな良い天気に傘なんか差してるんだ?」
出た言葉がそれか俺。
もっとこう、「こんにちは」とかあっただろ。
少女は小さく肩をすくめ、日傘の陰からいたずらっぽく笑った。
「今日は特別だから。」
声までやわらかい。春を連れてくるタイプの声だ。
「と、特別? 今日は……えっと、何の日だ?」
「内緒。」
口元に指を立てる。
ずるい。可愛い。いや落ち着け俺。
「あ、あのさ。俺は、その……風鈴草を見に来たんだ。十年に一度だけ咲くっていうから。」
「奇遇ね。私もよ。」
彼女は傘の縁からこぼれる光を指先で追いながら、こちらを向いた。
「私はリリィ。あなたは?」
「アレン・カーター。アレンでいい。」
「アレンね。うん、呼びやすい名前。」
名前を呼ばれただけで心臓が跳ねる。
初対面でこれは情けない。だが事実だ。
「リリィ、いい名前だね。」
「ありがと。自分でも気に入ってるの。」
……やばい。妙に気恥ずかしい。会話は弾んでる、はず…。
俺の顔、今ひきつってないよな。
思わず声がうわずって、リリィがくすっと笑う。
鈴がひとつ鳴ったみたいな笑い声だ。
「ところでアレン。あなた、ここにはよく来るの?」
「年に数回、気が向いたら。家の仕事サボる時とか。」
「正直ね。」
「正直さだけが取り柄でさ。剣もダメ、畑もダメ、パンは炭。」
「炭パン……気になるけど、食べたくはないわね。」
「俺もオススメしない。」
二人で笑う。会話って、こんなに続くもんだっけ。
知らないうちに、肩の力が抜けていた。
ふと、風が強くなって、日傘の布がふわりと持ち上がる。
リリィは慣れた手つきで柄を握り直した。
動きがやけに滑らかで、日傘と彼女はひとまとまりの道具みたいだ。
「……日傘、好きなんだな。」
「ええ。気に入ってるの。」
「わたしにとってかけがえのないものなの。」
さらりとした一言に、ほんの少しだけ影が差す。
冗談とも本気ともつかない調子。でも俺は深追いしなかった。
今は、ただこの空気が心地いい。
「そろそろ帰らなくちゃ。」
リリィが空を見上げる。太陽は少しだけ傾いて、丘の影が長く伸び始めていた。
「また会える?」
気づけば、俺が先に言ってた。
自分でも驚くくらい、声が真っ直ぐだった。
リリィは一瞬だけ目を丸くし、それからふわりと微笑む。
「ええ。またこの丘で。」
それだけ言って、彼女は白い傘を傾け、丘を下りはじめた。
日傘の影が草の上を滑っていく。
俺はその後ろ姿が見えなくなるまで、ひたすら見送った。
──そして気づく。
俺、名前しか聞いてない。
住んでる場所も、好きな食べ物も、何も知らない。
知らないのに、胸の真ん中がやけに騒がしい。
「……よし。明日も来るか。」
言葉にしてしまったら、もう後戻りできない。
まあ、へっぽこだって前に進むときはあるのだ。
風見鶏がくるりと回り、風が丘を撫でた。
それが、リリィとの最初の出会いだった。
翌日。俺は昨日より少しだけ早く丘に着いた。
学習したのだ。
彼女が来る前に来て、落ち着いて会話の準備をする。
具体的には、「昨日よりまともな第一声を用意する」ことだ。
そう、例えば……
「今日もいい天気だね。」
うん、普通。普通が大事。
深呼吸。よし、いける。
「今日もいい──」
「おはよう、アレン。」
先に呼ばれた。負けた。完敗だ。
振り向けば、白い日傘。
昨日と同じ、けれど何度でも新しい、という感じの笑顔。
「お、おはよう。えっと……その、いい天気だね?」
「そうね。」
会話を重ねるほど、俺の中の“昨日より少しだけ特別”が増えていく。
こんな感覚、初めてだ。
「ねえ、アレン。風鈴草のこと、どれくらい知ってる?」
「言い伝えがあるってくらい。風が吹くと鈴の音がして、願うと叶う……とか。」
「言い伝えってって、だいたい盛られるのよね。」
「夢を壊す発言きた。」
「でも、好きよ。盛られた話。」
「じゃあ逆に、叶えたい願いってある?」
「先にアレン。もし一つだけ叶うなら?」
「一つだけか……パンが炭にならない手。」
「現実的。」
「じゃあ朝、布団と円満に別れる勇気。」
「それ、好き。」
笑ってくれた。
俺も笑う。
こういう無駄話の積み重ねが、人生を幸せにするって誰かが言ってた気がする。
誰だっけ。俺かもしれない。俺だ。
「じゃあ、リリィは? どんな願いにするんだ。」
「……秘密、かな。」
「ずるい。」
「叶ったら教える。」
なんて可愛いんだ。真顔で言うの、反則。 俺の心臓、準備できてない。
「リリィは、どこに住んでるんだ?」
「丘の向こう。」
「具体性ゼロ!」
「内緒。」
「内緒多くない?」
「アレンは、明日も来る?」
「来る。……いや、明日どころか毎日来る。」
リリィが瞬きをして、小さく笑った。
「毎日?」
「仕事は?」
「午前中に全力で終わらせる。終わらなくても終わらせた顔をする。」
「正直の使い方、間違ってない?」
「俺は器用に誤魔化す術に長けているのだ。」
「自慢になってないのよ。」
リリィは肩をすくめて笑い、日傘をくるりと回した。
きらり、と光がこぼれて、花びらの影が草の上に浮かぶ。
「そういえば、風鈴草の音、聞いたことある?」
「ないな。花が咲いている所を見たことも、もちろんない。」
「……私もないの。」
「そっか。じゃあ、俺と一緒に見ようか。」
「一緒に、ね。」
リリィの視線がほんの少しだけ遠くなった気がした。
けれど次の瞬間には、もういつもの笑顔に戻っていた。
「約束、してくれる?」
「もちろん。十年に一度の花を、一緒に」
「うん。約束」
指切りでもすればよかったのかもしれない。
けれど俺たちはただ、目を見て頷いた。それだけで、十分に約束だった。
そのあとも、取りとめのない話を延々と続けた。
パン屋の新作の話、町の噂、
風見鶏の回る速さで天気を当てられるかどうかの無駄な議論。
俺はまったく勝てなかった。
リリィは強い。論理ではなく、愛らしさで勝つタイプだ。強い(確信)。
太陽が傾く。影が伸びる。昨日と似た終わり方の時間が、今日も来る。
「帰らなくちゃ。」
「送ろうか?」
「だめ。……ここで、またね。」
「ここで、また。」
俺は立ち上がって、彼女と並んで丘の端まで歩いた。
町が遠くに見える。教会の屋根、煙突、風見鶏。
世界は昨日と同じなのに、色が少しだけ濃くなって見える。
たぶん気のせいじゃない。
「アレン。」
「ん?」
リリィは白い傘を軽く持ち上げ、ぺこりと小さく頭を下げた。
俺も同じように頭を下げる。
誰に教わったわけでもないのに、動きが自然に揃って、少しだけ照れくさかった。
「また明日ね。」
「また明日。」
それだけ。だけど、明日が待ち遠しくなるには充分な言葉だ。
日傘の影が草の上を滑って、やがて細くなる。
見えなくなるまで見送った。
風がやんで、丘に静けさが戻った。
耳を澄ませば、草のこすれる音と、どこかの家から漂う夕飯の気配すら感じられるほどだった。
「……明日、天気よければいいな。」
願いは小さい方が叶いやすい。
まずはそこから。十年に一度の奇跡は、その次でいい。
こうして、俺とリリィの二度目の「また明日」が終わった。
──そして三度目の明日、日傘は風に乗って、空を泳ぐことになる。
その話は、次にしよう。
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