馬璃耶と矢立と男たち

 ジャーン…ジャアーンン…


 遠くから鐘の音が聞こえてくる。その音に呼応するように、近くで鶏の声。

 わたしは未だ重い瞼を擦りながら、申し訳程度に体を覆っていた茣蓙ござを払い除けた。


 頭が重い。


 昨夜、一匹の犬が吠え始めたのを皮切りに、野犬たちの遠吠えが大合唱へと発展した。生まれた頃から犬と暮らし、現在もゴールデンレトリバーの次郎と室内で同居していたわたしも、さすがに野生の犬は恐ろしい。


 今の住処であるこの庵──と呼ぶのも憚られるボロ小屋の間近でも甲高い遠吠えと低い唸り声が幾つも聞こえてきて、あまりの喧しさと恐ろしさにまったく眠ることができなかった。獣の気配に怯えて一晩を過ごし、東の空が白む頃にようやくうつらうつらと仮眠を取れたところだった。


 だからといって朝は訪れを待ってはくれない。


 いや。少し前のわたしなら──寝坊な家族に恨みがましく鼻を鳴らしてベッドの傍らで目覚めを待つ次郎の頭をひと撫でして、もう一度ふかふかの布団を被り直していたと思う。でも、今は二度寝なんてしている暇はないのだ。

 先程の鐘の音は、町の門が開くのを告げる合図だ。あの音と共に城内の広場には朝市が立つ。


「……」


 わたしは衣の袖に手を通し、壁際に置かれている麻袋を見た。少し前までそれには枡三つ分の麦が入っていた。

 本当はパンが恋しい。だけど残念ながらそれは諦めざるを得なかった。

 麦と水しか使わないパンの作り方なんて知らないし、そもそも手に入れた麦が大麦か小麦かの判別すらできない。だから自然と主食は麦を水から煮て、少しの塩で味付けしただけの麦がゆになった。冷蔵庫がないことを忘れていてお肉を腐らせてしまったから、なんの旨味もない。有り体に言えば「非常に不味い」それを、仕方がないので朝昼晩と食べていたらあっという間に袋の中身が底を突いてしまった。


(ご飯の回数、減らさなきゃなぁ)


 現実逃避してこの十日間ご飯ばかり食べていたことを少し後悔する。


 袷を身体に添わせて一巻きして、キュッと帯を締めて身支度は完了。慣れてしまえば洋服を着るよりずっと楽だった。

 エコバッグ代わりの竹籠を背負って、ようやく陽光眩しい室外に一歩足を踏み出す。

 玄関の脇に置いてある水を貯めた|甕(かめ)をちらりと見遣った。昨日、日が暮れる前に腕を痺れさせながら川から汲んできた貴重な生活用水だ。


 わたしは少し逡巡して、思い切って木製の板のような蓋を外した。透き通った水を両手で掬う。一見するときれいな水だけど、コレに顔を浸けるのは相当勇気がいった。煮沸していない水で洗顔するのは今日が初めてだ。本当は今日だって御免被りたいが、もたもたとお湯を沸かして冷めるのを待っていたら市が終わってしまうかもしれない。

 衛生観念と、こんな状況でも最低限の身だしなみは整えたい乙女心との戦いだ。


 わたしが初めてこの地にやって来たあの日。偶然知り合った孝安さんから善意で分けてもらった食料は、なんの計画性もなく消費してしまったせいで尽きかけている。市の時間に間に合わなかったら、今晩もあの不味い麦がゆを食べなければいけないし、明日の朝から食べるものがなくなってしまうのだった。


「よし!」


 わたしは気合いを入れるように、水に濡れた頬を両手でベチン!と叩いた。

 ──と、その時。


「ブッ!」

「ヒッ?!」


 木陰から人の声。あまりに突然だったからびっくりして、身体が2センチ程地面から飛び上がった。


「《いやぁ。ごめん、ごめん》」


 思わず笑ってしまった、というように口元に右手の拳を当てて左手はひらひらと振りながら、十日振りに見るその青年はゆっくりと姿を現した。

 愉快げに肩を震わせ続ける彼に、返す言葉を知らないわたしは不満げに見つめる事しかできない。


 今日も彼は、街やこの庵の近くで見掛けた人たちよりもだいぶ質の良さそうな、薄青の衣を纏っている。あの市場で途方に暮れていたわたしを救い出してくれた大恩人──郭孝安さんだ。

 実は今住んでいるこの庵を提供してくれたのも、周囲から浮かないようにこの世界の着物を調達してくれたのも、孝安さんだった。それどころか、「少しだけど」と言って金銭まで貸してくれた。本当に感謝してもしきれない。


 近くの大きな岩に腰を掛けた孝安さんが、手にしていた布の包みを開いてみせる。この前と同じような小さい竹の板──竹簡がバラバラと大量に散らばった。それを気にする素振りも見せず、孝安さんは早速その中の一枚を手に取って軽快に筆を滑らせた。


《どこに行くんだい?》

《市場です。食べ物がなくなったので》

《この前買ってあげた肉も?》

《長期保存する方法が分からなくて、ほとんど腐らせちゃいました》

「あちゃー……」

「……《ごめんなさい》」


 やらかした、というように顔を手のひらで覆った孝安さんに、そっと呟く。

 何度か、彼がその言葉を発音するのを聞いたことがある。タイミングからして、多分意味は「ごめんなさい」だと思う。


《俺の言葉を聞いて覚えたのかな?》


 僅かに孝安さんの目が見開かれる。それは彼の好奇心が唆られた時の癖のようだった。


《何回か聞いて、ごめんなさいって意味なのかと思いました。合ってますか?》

《合ってるよ。思った通りだ。やっぱり君は頭が良いんだね。異国の言語を、大して聞きもせずに習得するなんて》

《ごめんなさい、という言葉だけです。お肉、腐らせてしまってごめんなさい》


 もう一度謝罪の言葉を書くと、孝安さんは緩く首を横に振った。


《そりゃあ、あんな大量の肉、一気に消費なんてできないよね。普段くりやの仕事なんてしないから思い至らなかったよ》


 おもむろに立ち上がった孝安さんが、わたしに向けて笑顔で手を差し延べた。


「りぃや」

「え、りぃや?」


(なに?誰のこと?)


 一瞬混乱したわたしは、すぐに勘違いに気が付いた。


(名前、伝わってなかったーーー!!)


 どう見ても目の前の青年はわたしのことを呼んでいる。そういえば、名前を伝えた時、孝安さんは竹簡に当て字でわたしの名前を書いていた。


──、と。


(そういえば『馬』って、中国の一般的な名字だったかも……)


「あのね、孝安さん!わたしの名前はマー・リィヤじゃなくて──」


 慌てて日本語で訂正しようとして、笑顔のままの孝安さんと目が合った。


 ──まぁ、いいか。あだ名だと思えば。

 今はそんなことよりも、この人の助けを借りてなんとか生き延びなければならない。


《必要な物があれば俺が用意するから、今日はここに居てくれないか》

《わたしに何か用事ですか?》


 質問に、孝安さんがニコリと笑う。本当に人好きのする笑みだ。──まるで作り物みたいに思えるほど。


《君に会って欲しい人がいる》


 ──有一人、與衆不同。吾欲君見之。


 このたった12文字の漢字の並びが、わたしの人生を変えてしまうなんて。そんな、漫画や小説みたいな出会いが自身に降りかかるなんて。

 この時はまるで知る由もなかった。




 孝安さんと一緒についさっき出てきた庵の中に戻ると、わたし達は片付けを始めた。

 どうやら「会って欲しい人」というのは昼過ぎに来るらしい。だからそれまでの間に、所々壁が崩れ落ち、床板が抜けている部分をどうにか人を迎えられる程度には見栄え良くしておこうという算段だ。


 孝安さんに初めてこの庵に連れてきてもらった時には十日もここで過ごすことになるとは思わずに、屋根があるところで眠れるだけでありがたかった。だからボロさには目を瞑っていたけれど、数日前からは住環境を整えることを考え出していた。

 何度夢から覚めたって、この悪夢みたいな現実は終わらなかったからだ。

 終わらない悪夢なら、虫や鼠と同居することについて真剣に考えなければならない。


 孝安さんが麻袋を土嚢にして、目立つ壁下の穴にそれを詰めている後ろで、わたしは雑巾で床を拭いていく。

 はじめは白かった雑巾があっという間に黒くなって、戦慄した。

 ──こんなところで寝てたのか、と。

 ついつい床を拭く手に力が入る。


「りぃや」


 夢中で床をゴシゴシしてるわたしの肩を、ふと孝安さんが叩いた。


《これは何?どこで手に入れたの?》


 彼は何も持たないわたしの唯一の「所持品」を指差していた。

 スマートフォンを探した時に指先に当たった硬い感触。その正体がそれ──矢立だった。


 矢立は日本の古い携帯用の筆記具だ。

 そういう物があるという事を知って、いつでも毛筆が書けるというのが魅力的に思え最近になって近所の骨董屋で手に入れた物だった。

 わたしが持っているのは柄杓型。筆筒と墨壺が一体になっているタイプだ。鈍い金色をした真鍮製で、側面にはかわいい梅の花の彫刻が施されている。

 まだ使える状態ではなかったけれど、お気に入りのそれを持っているだけで気分が上がったから、学校に行く時も鞄の奥に忍ばせていたのだった。


 それが、何故か制服のポケットに入っていた。

 最初は(こんな物じゃなくてスマホだったら良かったのに……)と思ったものの、電波のない──電気そのものすらない今の環境に、スマートフォンは無用の長物だ。だけど古びた矢立を見るとほんの少しだけ心が癒やされたから、今では「お気に入り」から「お守り」に昇格している。


《矢立っていうんです。携帯用の筆記具で。元いた場所から持ってきました。私の唯一の財産です》


 わたしは矢立を手に取って、筆筒を開けて見せた。


《ここに筆を入れて》


 今度は墨壺を開けて見せる。


《ここに綿を入れて墨汁を染み込ませるんです》


 孝安さんは驚きに満ちた目を限界まで見開いて、それでも冷静に努めようと握った拳を口元に当てている。こんな仕草も、おそらく彼の心が動いた時の癖らしかった。


《こんな小さな蝶番に繊細な彫金……凄いな。使って見せてくれないかな?》

《手入れができてなくて使えないんです。でも、使い方は孝安さんの筆記具と変わりませんよ?》


 墨壺には以前の持ち主が使ったままの、墨汁でガビガビに固まった綿が詰まっていた。これを取り出して新しい綿を入れないと、矢立としては使えない。

 孝安さんは残念そうに矢立を矯めつ眇めつ観察していたが、しばらくして諦めたようだった。


 それから二人で片付けを再開した。

 部屋の隅にあった何かよく分からないごちゃごちゃとした道具たちを外に移動させようと庵を出ると、もう太陽は中天に差し掛かっている。


 ぐぅー……きゅるる


 お腹が鳴って、今日は朝から何も食べていないことに気付く。


「お腹空いたぁー!」

「くっ……」


 誰にも見られていないと思って油断した。晴れ渡る空に向かって叫んだところで、先程孝安さんが潜んでいた木陰から、噛み殺すような笑い声が聞こえてきたのだ。わたしは再び飛び上がった。


「誰ですか?!」


 問い質すと、木陰からゆったりと姿を現すひとつの影。


「!!」


 思わずわたしは言葉を失う。

 ──その人が現れた途端、周囲の木々さえざわめきを止めた。


 美しい人だ。


 顔立ちが、というわけではない。いや、確かに顔立ちも整ってはいるけれど、纏う空気そのものが美しい。


 歳は孝安さんと同じくらいだろうか。

 すっきりとした上品な黒の衣裳に身を包んだ、その姿。決して大柄ではないのに、彼の一挙手一投足が洗練されていて、優雅で、威圧されたように動けない。


「《失礼》」


 彼が言った。

 形の良い唇から紡ぎだされる声すらも、凛と透き通るようだった。けっして派手ではない、清涼な美しさ。喩えて言うなら神社仏閣を訪れた時に感じる静謐さにも似ている。

 彼が身体を少し動かすたびに、風に乗って良い香りがする気さえした。


(こんな美しい人、この世に存在するんだ──)


「《ここに郭奉孝という者が居るはずなのだが》」


 耳を撫でるような低音の心地良い声で、彼が話しかけてくる。当然わたしはその言葉が分からない。

 困るからもっと言葉を覚えたい、ではなくて、この人の言っていることをりたいから言葉を覚えたいと、ここに来て初めて思った。


「ごめんなさい。何を言ってるのか分からなくて──。今、分かる人を呼んできます」


 伝わらないのは重々承知で、だけどそう口にして頭を下げた。

 その時──。


「《あー、荀兄じゅんけい!来てたんですかぁ》」


 孝安さんが庵の入口で大声を上げた。

 彼が連れてきた清涼な空気が、その気の抜けた声とともに霧散した。──気がした。


「《おまえが来いと言うから来たのだ》」

「《早く入ってくださいよ。あ、饅頭持ってきてくれました?》」


 今まで「お兄さん」の態度を貫いていた孝安さんが、急にお兄ちゃんに甘える弟みたいに見える。ふたりとも何を言ってるのか、まるで分からないけれど。


(それにしても、今日はよく笑われる日だな)


 なんてつまらないことを考えながら、わたしはふたりの後に付いて庵に戻った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る