女子高生、後漢の地に立つ

いんげん豆

女子高生、後漢の地に立つ

 トンネルを抜けるとそこは異世界だった──。


 なんて。咄嗟にパロディが思い浮かぶ。

 いや。トンネルを抜けると雪国なのは、まぁ起こり得る事象だ。北へ進む汽車はトンネルを抜ける。突然明るさを取り戻した視界。車窓の向こうに広がるのは一面の銀世界。とても幻想的で心躍る光景だけれど、その幻想は容易に再現が可能だ。

 けれどたった今わたしの身の上に起こったことは、おそらく再現不能だ。


 校門を潜ったら、時代村が広がっているなんて──。


 目の前にはむき出しの土の地面。それを気にする素振りもない老若男女たくさんの人々が往来をひしめく光景が広がっていた。

 行き交う人たちは男女とも髪をお団子のように結っている人が多い。みんな一様に着物のような、でも所々そうじゃないような粗末な衣装を身に纏っている。

──背中まで伸びた髪を結い上げもしていない制服姿のわたしは、明らかにその場では異質な存在だった。


 子どもたちが逃げ回る鶏を追って走り回り、上裸の男の人が何やら重そうな荷物を両肩に担いで足早に通り過ぎて行った。


 風に舞う土埃に混じって、縄に繋がれた家畜たちの糞の臭いが漂ってくる。所狭しと敷き並べられた茣蓙。その上に乾燥した植物や生の野菜、食器のような雑多な物までが並べられている。逆さに吊るされた鶏は風に揺れ、切り分けられた動物の大きい肉の塊に纏わり付くように蝿が集っていた。

 笑い声、怒鳴り声。感情の様々な喧騒がごちゃまぜになっている。

 ここは多分市場なんだろう。インターネットで海外のこんな光景を見たことがある。人々の様子はまるで違うけれど。


 ハッと我に返って、慌ててスマートフォンを取り出そうと持っていた鞄を探る。

 ──ない。

 スマートフォンどころか持っていた鞄ごと消え失せている。

 ポケットを探ってみても何も無い。──いや、指先がハンカチと何か堅いものに触れた。けれど今はスマホでないなら用はなかった。


「えぇ?待ってよ……。今日って文化祭とかだっけ?」


 わたしの知らないうちに文化祭が開催されて、テーマが「古代」だったとか?その為に鶏の死骸をどこからか調達してきて吊るし、豚の頭と抜いた内臓をテーブルに並べてるとか?驚いているわたしを、着物に似た衣装に身を包んだ同級生がどこかで見て笑っているとか?

 ──そんな馬鹿な。

 そんな猟奇的な文化祭あってたまるか!そんなの、もうサバトじゃん!!


 見知らぬ人々が見知らぬ格好をして見知らぬ言語を話している。

 そんな中、着の身着たままのわたしだけが、途方に暮れてその場に立ち尽くしている──。




 あまりの出来事にしばらく思考停止したわたしの肩に、突然ドンッという衝撃が襲った。


「痛っ」


 竹で編まれた籠を背負った痩せぎすのおばさんが振り返った。肩を押さえたわたしのことを少しだけ見遣って、無言で去って行く。


(怖い……)


 さっきまでは、突然目の前に広がった現実感のない光景に戸惑うばかりで怖さなんて感じなかったのに。

 この世界の住人に干渉して視認された途端、本来感じるはずだった恐怖と不安が一気に襲い掛かってきた。

 指先からスゥッと体温が消え、足はガクガクと震えだす。


 ──多分、ひとはこういう状態のことを恐慌と呼ぶんだ。


 鼓動は早鐘を打ち、ぐらぐらと視界が回転した。


 ドンッ!


 よろける背中に、また何かがぶつかった。


 市場の入口で、身を竦ませて立ち尽くす人間。──邪魔に決まっている。


 忙しなく行き来する人たちが口々にわたしに向かって、おそらく「邪魔だ」と文句を言った。言葉が分からなくてもそういうことはなんとなく分かる。

 けれどどうしたら良いのか分からなくて、わたしは「ごめんなさい」と小声で繰り返しながらその場に留まっていることしかできない。

 厳つい筋肉の年配の男性に掴みかかられそうになった時、横からまた別の誰かの細い腕が伸びてきて丸太のようなおじさんの腕を止めてくれた。


 助けてくれた人は、見た感じ二十代前半くらいの青年だ。

 薄藍の衣がその痩身を包んでいて。濃紺の帯と、薄緑の石で作られた繊細な意匠の帯留めが柔らかく太陽光を反射している。

 控えめだけれど、今この場にいる誰よりも質の良い物を惜しげもなく身に纏っているのが分かる。頭頂部で一纏めにした髪を覆い隠す草色の布さえも、多分良い物なんだろう。


 彼が筋肉質なおじさんに何かを言うと、そのおじさんを含めた周囲の野次馬が蜘蛛の子を散らすようにわぁっと居なくなってしまった。


 残されたのは遠くに聞こえる喧騒と、彼とわたしだけ。


「……、小姐」


 人好きのする笑顔を向けて何やら話しかけてくれたけれど、やっぱりわたしにはその言葉が理解できない。でも、初めて穏やかに自分に向けられた言葉だからか、聞き取れる部分もあった。


(中国語──?)


 そうだ。その響きはいつか少しだけ聞いた中国語に似ている。


 戸惑いに小首を傾げて、彼の瞳を見つめる。そうすると彼はまた何かを呟いて、何処からか薄くて細長い竹の板と筆を取り出した。

 不安がるわたしにまるで「大丈夫」とでも言うように目配せして、何事かを竹の板に書き付けていく。


 その文字は──読める。

 読める、というか……。


(っ漢字!これ、漢文だ!!)


 書道部所属の自分にはあまりに見慣れた文字だった。

 青年の持つ板切れには、現代に遺る拓本のような美麗な文字でいくつかの漢字が書かれていた。それをわたしは目を凝らして読む。

 まるでそれが唯一の拠り所のように。


《私の名前は郭孝安かくこうあん。危ないところだったな、娘さん》


 相手の言葉が分かる。

 意思の疎通が出来るかもしれない事実を前に、わたしは一気に身体中の緊張の糸が切れてその場にしゃがみこんだ。

 そうして大声を上げて泣いた。




 孝安さんは泣きじゃくるわたしの肩に優しく手を置いて、黙って落ち着くのを待ってくれた。そうして小さい嗚咽のみになった頃、ようやくふたりして市場の隅に移動した。


《落ち着いただろうか?》


 さっきと同じ竹の板に書かれた言葉に小さく頷く。

 手のひらを差し出すと、孝安さんは微笑んで竹板と筆を貸してくれた。


 ──漢文。読めるけど、書くのは苦手なんだよね。伝わるかな?


 伝われ!と祈りを込めて、おそらく文法的にも字形的にも拙い文を孝安さんへと見せる。


《助けてくれてありがとうございます》


 孝安さんは一瞬虚を突かれたように切れ長な一重の目を丸くして、それからゆっくりとひとつ首を縦に振った。


──伝わった!


 孤独と不安に震えていた胸に、ようやくはっきりと歓喜の灯火が宿った。

 どうしよう。聞きたいことがたくさんある。

 逡巡している内にわたしの手から板と筆が奪われて、今度は孝安さんの番。


《君の名は?》

「あ、名前!」


 そうだ。助けてもらった人に、まだ名前すら名乗っていないなんて。

 差し出された札に《わたしの名前は仙道まりやです》と書こうとして、筆が止まった。

 まりや。漢字でどう書けばいいのだろう?適当な当て字?それとも名前の意味を取って《聖母》とでも書けば良いんだろうか?でも、自分の名前を《聖母》だなんて。なんだか気恥ずかしすぎる──。


「まりや。わたしは仙道まりやです」


 結局わたしは自分の胸に手を当てて、声に出して日本語で伝えた。


 以前、お父さんと街を歩いている時に外国の人から道を尋ねられた事があった。その時お父さんは一生懸命ジェスチャーで道を教えてあげていた。結局伝わるまでに30分も掛かってしまったけれど、最終的には相手も理解して正しい方角へと歩いていったのだ。


 文字は迅速に意思疎通を図る為の重要なツールだけど、真摯に相手の目を見ながら訴えれば、肉体言語だってきっと伝わるはずだ。


 わたしは何度も自分の胸を叩いて「まりや。まーりーや!」と繰り返し、相手を指してから板に書かれた《郭孝安》という字をなぞって見せた。


「まぁ……りぃや?」


 思ったよりも短時間で彼はわたしと同じ音を復唱した。それから竹の板に、


《君の名前は馬璃耶?》

「そう!」


 結局当て字にはなったけれど、わたしの名前は伝わったのだ。当て字なんて気にしている場合ではない。

 それからわたしたちの間を竹の板と筆がとめどなく行き来する。


《君はどこの国から来たんだ?初めて聞く言葉だ》

《日本です。ここは何処ですか?》

《ここが何処かも分からずに来たのか?》

《気が付いたらここにいて》


 書くスペースがなくなると、孝安さんが板を小刀で削って文字を消す。


《人攫いにでもあったのだろうか?》

《何も分からないんです》


 孝安さんは口元に拳を押し当てて思案する仕草をした。その間、わたしは二人で文字を書き殴った竹の板を見つめる。


 今までも書道のお手本にする為にいくつもの漢文を見てきた。字に感情を乗せるために意味を知らなければならないと先生に言われてから必死に漢文を勉強して、なんとか僅かばかり読み解けるようにはなった。だけどこれまでは「文字に込められた感情」なんて、一度も理解できたことはなかった。

 でも、この板に刻まれた文字たちには確かに感情がある。


 興味、好奇心、不審、それに加えて心配する気持ちと──。少しの打算?


 孝安さんの文章からそれが伝わってきて、脳内で翻訳された言葉たちはまるでわたしが友達と話している時のように生き生きと自然な言葉遣いになる。


《それは大変だったね》


 脳内翻訳から、書き文字の堅苦しさが一切なくなった。


《ここ、鄄城けんじょうだよ。分かるかな?今は曹孟徳が治めている兗州えんしゅうの》

「曹孟徳?!」


 地名はまったく聞き覚えがない。でも、その人名だけには聞き覚えがあった。

 何故ならば、わたしが幼稚園の時から通っている習字教室の先生は超が付くほどの三国志好きで、生徒に延々と書写をさせていたからだ。曹操が作ったとされる「酒を飲んでまさに歌うべし」から始まる詩──『短歌行』を。小学生の我々に。


《曹孟徳って、あの曹操?》

《どの曹操かは知らないけど、操って名で字が孟徳なら、だいたい今は兗州牧の曹孟徳のことだと思うよ》


 頭から血の気が引く音がした。


《孝安さん、もしかしてこの国は後漢ですか?》


 震えそうになる指を抑えて書いたけれど、形になった文字は所々歪んでいる。


《後漢とは、面白い言い方をするね。確かに王莽おうもうに滅ぼされる前の国を前、世祖が再興した国を後と呼ぶなら、ここは後漢なのかもしれないな》


 ──校門を潜ったら異世界に辿り着いたのかと思っていたけれど、それは間違いだったらしい。


 どうやらわたしは、三国志の時代に迷い込んでしまったみたいだ。

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