第13話 心神ハミングウィンドウ #朔 #凪
事故から一日が過ぎた日曜の昼過ぎ、リビングのソファの上。
つけっぱなしにした壁掛けのモニターから漏れる光と音で、
朔はソファから起き上がると、腰かけたまましばらく画面を見ていたが、思い立ってモニター下のローボードからキーボードとマウスを取り出した。
速報サイトで地元ニュースを検索すると、安倍子区での交通事故の見出しが表示された。
あの事故についての報道。
再生ボタンをクリックした後、バーをスライドさせる。
「昨日、
明るい色のスーツを着た女性キャスターが、須磨と呼ばれた隣のグレースーツの壮年男性に尋ねる。たぶん、彼が専門家、本件のコメンテーターだろう。
「えー、確かに最近の新車にはレベル4の自動運転システムが搭載されているんですが……事故を起こした車は20年以上前のモデルだったようですね」
「20年前……車ってそんな長く使えるんですね。買い替えなかったんでしょうか?」
「そこがポイントなんです。問題の安倍子区。こちらの地区、かなり高齢ドライバーが多いんですね。少子高齢化はこういった都市部でも進んでいるんですけど、……商店街の、小型店舗の店主さんですとかは、仕事のために車が必需品。こういった方が自動運転装備の無い旧式車を使用せざるを得ない原因は、経済格差が背景にあるんじゃないかと思っています」
コメンテーターが、「過去十年の年齢別交通事故統計」と書いたボードを手に説明する。ボードに描かれているグラフから、六十歳以上の高齢者ドライバーの事故率が、右肩上がりで上昇していることがすぐに分かった。いわゆる就職氷河期世代で、バブル崩壊後、好景気に恵まれず、貯蓄が困難だった世代――失われた世代の運転手たち。
朔は報道を聞きながら、要点を理解する。
あの事故を起こしたのは、近所の商店の店主だった。
事故の後、警察の現場確認で事情を聴取された。しかし、故意ではなく、過失による事故であり、また、目立った負傷者がいなかったということもあり、現場確認は約三十分で終了して、朔と凪は早々に解放された。
マスコミの取材のような面倒な事態にならなくて、朔は安堵していた。
再生していた、地方ニュースの切り抜き動画が終わり、モニターが無音になる。
静かな部屋の中、朔は、事故の瞬間の凪の行動について考えていた。
あの時、凪はまず、傘を捨てた後、猫を放り投げていた。
あれには、どういう意味があったのか。
猫が子供達と同じく、ワゴン車の動線上にいたから助けたのだろう。
遠くに放り投げたのは、猫なら高い位置からでも着地できるし、もし遠くに投げなかったら、猫の習性で同じ位置に戻ってきてしまうからだろうと考えた。
その後、凪は、ワゴン車の方を見ずに子供たちに向かってダッシュしたわけだが……
(傘を放り投げた時点で、もうワゴン車が再度動き出して暴走することを予測していないとできない行動だ……)
ふいに、寒気を感じて身震いする。
教室で前園のTSP問題を解いた事といい、今回の事故回避の手腕といい。
彼女には何か、隠された秘密がある――――それも、想像しているよりも、途方もない――――そうとしか思えなくなっていた。
(もしかしたら、図書館の問題も――――)
それについても関連性を考えたが、量子コンピュータでしか解けない問題の解答を、研究員の伝手もない凪がどうやって入手したのか、あるいは総当たり法以外の方法で、自分で解いたのか……どちらにしろ、有効な方法が想像できなかった。
事故に関しては、一つわからないことがあった。
ワゴン車が背後から迫っていた時、朔は凪の方に駆け足で向かっていた。
『新開地君、後ろ!』
凪の掛け声で、朔は立ち止まってしまい、後ろを振り返ってしまった。
声を掛けなければ、朔はまっすぐ進んで、凪と合流していたはずだ。
あの一点だけは、合理的な、最善の行動ではなかった。
凪が悪意を持って朔をワゴン車に衝突させようとしたとは思えないし、何か理由があって呼び止めたのだろうか?
*
暗い部屋で一人、報道を無表情で見つめている少女、
マンションの床に体育座りで、膝の上で腕を組み、瞳にはテレビの光を反射している。
朝からずっとニュースを見ていたのには理由がある。
テレビの画面には天気予報が映っており、今週は梅雨の天気が長く続くことを証明する画像が出ている。
日本地図の上に描かれた、雨雲レーダーの、虹色の虹彩。
凪はようやく気付いた。なぜ今までこれを目にしなかったのか――――南関東は、冬も春も降水量が少なく、今まで天気をあまり気にしていなかったからかもしれない。
線状降水帯、もはや例年の風物詩となったゲリラ豪雨の生みの親が、神奈川県の上にも、幾筋もの虹色の線状の帯を描いている。
1時間当たりの降水量50ミリから80ミリ。
買い物は、アーケード街にあるスーパーやディスカウントストアで済ませることができるかもしれないけど――――
凪の住んでいるマンションは、商店街に近いが、それでも外に出れば雨にさらされる区間がある。貧弱なビニール傘だと心もとない。
お天気キャスターが注意を喚起する。
「河川の近くにいる人は、命を守る行動を心掛けてください」
凪の耳にはそれが入らない。
凪はあの瞬間を思い出していた。
あのワゴン車の軌道と、子供たちの位置――予測を妨害するはずの、雨粒の軌道、地面に当たる雨音――――それらを取り除いて――――危険の流れが、虹色の帯で視界に浮かび上がっていた。
色には意味がある。それは雨雲レーダーの表示と酷似している。
赤が強く、黄色、緑、水色、青と次いで弱くなっていく。
何かを確認したいと思い、目を凝らすと、その虹の一部が変容する。
――――線状に――――先端に円錐が付いた形に――――流線表示、という言葉を聞いた事がある。
この矢印は――――ベクトルだ。方向を矢印で、値の強弱を色彩で表す。これでは、まるで――――
なぜ、今になってようやく――――もう、そんなことを考えるのに意味はないのかもしれない。気付きようがないことなのだ。自分の症状と、それの類似点など。人の視野に、そんなものが現れるなんて、思いつきもしなかった――――説明もつかないし、理屈も分からない。
どうして自分の頭は、脳は、そんな情報を出してくるのだろうか? どうしてそんな風になってしまったのだろうか? 凪は疑問で堂々巡りになり、考えても分からなかった。
が、はっきりしていることはあった。
この状態が現れるのは二つの時。
一つは、絶望的な気分になって精神不安定になった時。
もう一つは、自分や周囲に、差し迫った危険が起こった時。
そして、もう一つの事実。それに気づいて、恐怖を感じて震えた。
自分は声を掛けてしまった。
そのため、彼は躊躇した。
ワゴン車の軌道は予測できた。
だけど、人間の行動は予測できなかった。
もしかしたら、あの時、もっと、彼がためらっていたら――――
自分が彼を引っ張るのが遅れていたら――――
彼はワゴン車に衝突されていたかもしれない。
「…………!」
「…………」
同じマンション、2LDKの奥、父の寝室から、くぐもった笑い声と、誰かの囁き声が聞こえてくる。
その部屋は、以前は母が使っていた部屋だ。
正確には、自分と母親が中学生までの時間を共にしてきた部屋だった。
凪はその部屋で乳幼児の頃から育てられた。
凪は母が好きだった。
優しくて、しっかり者で、家の家計も父の仕事も、母が支えていたと言っていい。
その母は今はもう――――
「……ちょっと、娘さんいるんでしょ?」
「どうでもいいよ……聞こえやしねえって」
リビングにいても、聞こえてくる女と男の声。
男は父親で、女の方は…………
少しの間、凪は声が聞こえた方向に視線を向けていたが、またテレビの画面に視線を戻した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます