遠い愛/近い愛/そして私
羽翼綾人(うよく・あやひと)
第1話:電車の中の小さな嘘
八月の水曜日。
太陽が西に傾いても、アスファルトの熱気はまだ、フレンズマートの自動ドアが開閉するたびに、生温かい空気を店内に送り込んでいた。
八時間シフトを終えた
──今日、桃子先輩に助けられなかったら、定時に終わらなかった。助かった。でも……疲れた。
沼津駅のホームに立っている。
ブラウスの一番上のボタンを外して、襟近くをパタパタ揺らして、風を肌の中に入れていく。
背中が、汗で僅かに湿っているのがわかった。
電車が来た。
JR東海道本線のボックス席。
窓際の席に深く腰掛けると、大きく息を吐く。
──座れてよかった。新蒲原まで30分、休める。
仕事のためにきつく結んでいたポニーテールをほどく。
熱のこもった頭皮に、電車の冷房が心地よい。
ガタン、ゴトン……。
規則正しいレールの響きは、疲れた心身を揺する、心地よい揺り籠のようだった。瞼が、重力に逆らえずに落ちてくる。
いくつかの駅を過ぎていく。乗客が増えてくる。
意識が途切れがちになる。こくり、こくりと揺れる頭が、やがて抗いがたい重さに負けて、隣席の硬質な肩へと、ことりと預けられた。
完全に無防備になった寝顔は、向かいの席から見ると、その年齢よりずっと幼く見えたことだろう。
眠りによって緩んだ唇が、僅かに開かれ、小さな規則正しい寝息が漏れていた。
長い睫毛が落とす影が、パート終わりの熱でほんのりと上気した頬を、微かに彩っている。
その時だった。
彼女の膝の上に置かれたトートバッグの中で、スマートフォンが、短く震えた。
ブブッ……。
その振動で、結衣の意識が揺り戻される。
瞼を上げると、視界はまだぼんやりと滲んでいた。
最初に感じたのは、頬に触れる硬質の感触だった。
知らない布地の微かな温かみ。
それは、毎日顔を合わせる佐野さんの汗と制汗剤の匂いとも、電話越しに思い出す翼の柔軟剤の匂いとも違う、知らない男の匂いだった。
──え……?
状況を理解した瞬間、結衣の体は弾かれたように跳ね起きた。
いつの間にか、隣に座っていたスーツ姿の見知らぬサラリーマンの肩に頭を預けて眠ってしまっていたのだ。
慌てて体を起こすと、汗で少し肌に張り付いていたブラウスが、ぱり、と音を立てるような気がした。
ブラウスの胸元が激しく上下する。
しかもホームで外して風を入れていた時のまま、大きく開かれていた。
幸い、隣の男性も疲れているのか、目を閉じて眠っている。向かいにいるのは、男子高校生たちで、さっと目を逸らした。
心臓が、早鐘のように鳴り響く。
顔から一気に血の気が引き、そして、次の瞬間には耳まで真っ赤に染まっていた。
──これは、恥ずかしすぎる……!
彼女は、少しばかりパニックになりながら、何でもないような顔をして胸元のボタンを閉じていく。
その後、震える手でスマートフォンを手に取った。
画面には、
『結衣、おつかれ〜』
彼とは、大学時代から付き合っている。
この春、大学のあった静岡県を離れて、岡山県の地元企業に就職した。
『今日そっちは天気どうだった??』
彼からの連続メッセージ。
だから、今は遠距離の関係にある。メッセージや通話でその仲を確かめ合っている。
『こっちは一日中、晴れだったよ〜』
彼からの矢継ぎ早のメッセージ。
ちょっと子供っぽい、何も考えない無邪気な賑やかさ。それが藤林翼の翼らしいところだった。
結衣は、そんな彼の明るさが好きだった。
寂しい時、気持ちが沈んだ時、いつも気軽に声をかけてくれる。それでいて、ひどく真面目で、いつも彼女のことを気にかけてくれる。
初めて彼が頬に触れた時の、あの温かみ。そして心を蕩かした甘いキス。
あの瞬間までただの友達だったはずの翼が、私の『恋人』になった日。
──なのに。
だが、今は目覚めたばかりのためだろうか。
なぜか返事を返すのが面倒になっていた。
──彼と、もう半年近く、会っていない。
頬にはまだ、知らない男のスーツの感触と、生々しい体温が残っている。
それは、翼がくれた記憶や、言葉よりも、ずっと現実的で確かな、今の「温もり」だった。
結衣は、胸のうちで首を横に振る。
こんな見知らぬ男性じゃない、私を知っている、私が知っている男性に──ちゃんと今、触れたいんだよ。
スマートフォンの画面を見つめながら、そう思った。
しかし、翼の顔が思い浮かんでこない──。
男性──私が話を聞いてほしい時、髪を撫でてくれる人、私が寂しい時、ちゃんと抱きしめてくれる人。
結衣が求めているのは、画面の向こうの人格ではない。生身の人間だった。頬に手を当てて、生地の跡を確かめる。
チラリと隣を見た。
その男性は今も目を閉じている。眠っているのかどうかはわからなかった。
画面を見直して、テキストを打ち込む。
「こっちは、一日中、雨だったよ」
彼女は、小さな嘘を返して送った。
本当は、朝からこの時間まで、雨なんか見ていない。
どうせ、翼だって調べて確認したりしない。
窓の外は星も見えない、夜の闇に沈んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます