第2話:遠い約束と近いミルクティー
穴山結衣は、その翌日の午後も、頬に残る知らない誰かの体温を、まだ引きずっていた。
沼津駅北口近くのスーパーマーケット、フレンズマートのバックヤード。
山積みになった段ボールを開けながら、彼女の意識は、どこか上の空だった。
翼に嘘をついてしまった罪悪感。
そして、あの瞬間に感じてしまった、どうしようもない寂しさ。
その二つが、交互に彼女の心を苛む。
──久しぶりに感じた男の体温。
頬に手をやる。もう何も残ってはいない。
「……穴山さん、ちょっといいか」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは、飲料・菓子部門を担当する社員の
「あ、はい。佐野さん」
「これ。さっき棚に出した新商品。よかったら」
彼が差し出したのは一本のペットボトル。結衣がいつも休憩中に好んで飲んでいる紅茶ブランドの新しく出たばかりのロイヤルミルクティーだった。
「わあ……ありがとうございます。でも、いいんですか?」
「ああ。どうせ俺も、味見しとかないといけないから」
それだけを言うと、佐野はいつものように少しだけ口の端を上げて静かに笑った。その多くを語らない不器用な優しさが、今の結衣には少し眩しく見えた。
「……もしかして、私がこの紅茶好きなの、知ってました?」
「いつも休憩の時、そこのメーカーのを買ってただろ。俺、飲料担当だから、自然と目に入る」
彼は自分の仕事に戻っていった。結衣は、そのペットボトルを握りしめた。ひんやりとした感触が手のひらに心地よい。
その日の午後、結衣は、理不尽なクレームを言う中年女性の客に捕まってしまった。
「これ、いつもならもう半額シールついていませんか。どうしてまだ二割引シールなんですか?」
三十分近く、不満をねちねちと繰り返され続ける。この女性は、前々から若い女性スタッフを見かけては、クレームをつけるのだった。
その日のターゲットは、結衣だった。
間の悪いことに、その時間は重要な会議があり、多くの社員が現場を離れていた。
「あんたのところはね、季節ごとにお弁当の種類が半分くらい新しくなりますよね?」
中年女性は、試食品のリンゴを手に持ったまま、捲し立てている。
「その時に高い新商品を出して、安い商品を販売終了にするの、わかってるんですよ。こんな悪質な値上げ、どう思ってるんですか?」
結衣は、ただ「恐れ入ります」「申し訳ありません」と頭を下げ続けることしかできない。涙が、目の縁に滲んできた。
その時、レジの応援に入った佐野が、割って入った。
「お客様、経営のことは現場のパートスタッフにはわかりかねますので、俺が承ります」
彼の介入に、女性客は頬を緩めた。佐野は少しばかり男前だった。だが、彼はそこで彼女を宥めるのではなく、「はあ、なんでしょうか」「わかりませんね」「正社員ですよ。それが何か」などと終始、小馬鹿にした態度で、その客をあしらっていく。
女性客が「二度と来ませんからね」というと、「お客様、イシバシ跡地に新しいスーパーができますので、お勧めいたしますよ」と、強い嫌味まで投げかけた。
これを見た結衣は、だから佐野さんは、出世しないのかもしれないな、とちょっと思った。
休憩室──。
佐野のおかげでクレームから解放された結衣だったが、まだ気分の落ち込みから抜け出せず、一人、テーブルに突っ伏していた。
そこに佐野が入ってきた。結衣は、慌てて体を起こした。
「あの、佐野さん、さっきはありがとうございました……」
「……いや」
彼は、それ以上何も言わなかった。ただ、自動販売機で買ったミルクティーの缶を、ことり、と結衣の前に置く。
「…………」
「ああいうのは、ただの嵐みたいなもんだから。過ぎ去るのを、待てばいい」
──佐野さんなんか、自分から嵐になったくせに。
そう思って、ちょっと頬が緩んだ。
ミルクティーを開けて、一口飲む。
どこにでも売っている、誰にでも買える大手のミルクティー。しかし、値段の付け方が中途半端で、今一つ売れていない、おそらく来年には消えてしまうだろうミルクティー。
だが、彼は、結衣が最近、このミルクティーが気に入って、よく飲んでいることを知っていた。
翼だったら、『大変だったな、気にすんなよ』と、電話の向こうで元気づけてくれるだろう。
でも、今、この瞬間にミルクティーを差し出してくれるわけじゃない。
結衣の瞳から堪えていた涙が、一筋こぼれ落ちた。
「……すみません」
「……ゆっくり、休んでて」
佐野は、静かに休憩室を出ていった。
その夜、新蒲原へ向かう電車の中。
翼からの『仕事終わったー!疲れたー!』という、子供のようなLINEのメッセージを眺めながら、結衣は、昼間のことを思い出していた。
女性客との間に立った、佐野さんの大きな背中。ミルクティーを手渡した時の不器用な笑顔。そして、あの冷たいミルクティーに、ほんの少し残っていた温もり。
そして、翼のことを思い出す。遠い空の向こうから送られてくる、何の変わりもない優しい言葉。側にいて欲しい時にいてくれない、ずっと恋人らしいことを何もしていない男の人。彼との関係は、恋人ごっこにもなっていない。
──こんな夜に、私を抱きしめてほしいのに。
一年前なら、二人は子供っぽい言葉を交わして笑い合いながら、くすぐり合い、そして学校の行事を二人でするように、衣服を脱いで、肌を重ねあっていた。
灯りを消すと、翼は決まって布団の中に彼女を引っ張り込んで、誰にも聞かせられないような恥ずかしい痴話を交えながら、闇の中で彼女の肌を味わっていた。
やり方はいつも大体同じ。結衣の人より大きな二つの胸を、時間をかけて楽しんでいく。とてもくすぐったいので、油断をすると笑い声になってしまう。
それを我慢しようと、息を強く発していく。すると、それは艶っぽい声として布団の中に響き、それが翼だけでなく、結衣自身をも興奮させていく。
そして繋がる。これが二人のいつもの時間だった。
──それはもうない。いつあるかわからない。
永遠に来ないような気にさせられる。
結衣は一人、ため息をついた。それが、あの時の、笑い声から逃れようとするような声だったので、彼女は自分にびっくりした。
──そう。今度、職場で佐野さんに会ったら、ちゃんとお礼を、言わなければ。
そう思うだけで、心臓が少しばかり速く脈打つのを感じた。
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