雨の堕とし子

 2025年10月31日、東京はハロウィンで盛り上がっているがあいにくの天気だ。そんな中で、私は渋谷にいた。

 古代ケルトの収穫祭、現世に現れる悪霊たちから身を守るために、人々は仮装をしたと言われている。そんな祭事が海と時を越え、この渋谷という街ではただのコスプレ祭りと化している。雨だというのに多くの人がハロウィンのために集まっている。

 スクランブル交差点ではDJポリスの誘導が行われていて、傘の群れが警察の統率により往来し止まる様は、細胞の動きのようにも見えた。私もまた、その一員だ。


 あの資料が私の元に送られてきてから、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。資料は全て読み終わり、そのまとめもできた。そしていま、私はこれからどこへ向かうべきかと悩んでいる。

 坂下が、私を呼んでいる。あの村に、全部お前のせいだ、責任を取れ、助けに来いと。

 交差点で歩みを止めた私に多くの人が肩をぶつける。怪訝な顔で私を見るが、そのどれもが記号的にしか感じられない。私は、そのまま俯く。

 私の前に、誰かが歩いてきて、歩みを止めた。傘の隙間から、その足が見える。水死体のように血色の悪い、ブヨブヨの小さな足。爪はほんどが取れていて痛々しい。それはすぐに踵を返し走り出す。小気味よい足音が、私の耳に届く。渋谷の、ハロウィンの雑踏よりもクリアに。前を向くと、センター街の入り口にそれは立っていた。水死体の体と巻き付いたしめ縄。子供らしい輪郭と、魚のような顔。縊魚児だ。ヌメヌメとした石鹸のような肌を、雨の水滴がなぞっている。

 私の前に全身を見したのはこれが初めてだ。縊魚児の詳細な姿を見たのは井村さんの残した映像でだけだったし、それ以外で存在を目視したのはひまりちゃんのお腹についていた腕だけ。

 そう、ひまりちゃん……私が今日この街にいるのは、彼女に呼ばれたからだ。初めて会ったときに渡しておいた名刺に、ここ数日何度も電話があった。あいにく坂下の件に集中したかった私は電源を切っていたこともあり、彼女からのコールに応えることができなかった。気がついたのは電話ではなく、DMだった。


10月31日 渋谷センター街 夜


 スマートフォンの電源を入れると、絶えず着信をかけ続けていた形跡があった。何日も、何日も。

 私の目の前にいる縊魚児は、口をぱくぱくさせて光のない黒い瞳でこちらを見ている。仮装をした人たちがその横を何食わぬ顔で通り過ぎる。あれが見えているのは私だけなのだろう。


「立ち止まらないでくださーい!!」


 警察の声で我に返る。一瞬目を逸らした隙に、縊魚児は消えていた。私は再び群衆の歩みにリズムを合わせ、センター街の中に入っていった。

 目ではひまりちゃんを探していたが、私のその心は別のことを考えていた。ここ数日ずっと、ずっと。


 私は島根に向かうべきなのだろうか。向かったとして、私になにができるのか。あの資料を手がかりに坂下のことを見つけ救出する。果たしてそんなことが可能なのか。私は特殊工作員でもなんでもない。運動神経や体力だって人並みだし、大学を卒業してからはろくに運動もしていないのでたいして動くこともできないだろう。そんな私が坂下を助ける? 捕まったらどうなるかは、わかりきっているのに。成瀬さんのように歯を抜かれ、首を絞められ激流の中に捨てられるのだ。そんなの、耐えられるわけがない。


"もしも僕が死んだら、真っ先にあなたを殺しに行きます。必ずです。むごたらしく、苦しみを与えて、殺してくれと千回懇願させてたところで、殺してあげます。嫌でしょう? ほら、だから助けてください。"


 坂下からの最後のメッセージを思い出す。あいつは死んだら、化けて出るだろう。ありったけの呪詛を飛ばし、私を苦しめるだろう。ハッタリじゃない、それができる。憎しみ、悲しみ、怨嗟が積み重なった者の成れの果てとそれが持つ説明できない力を、私は身を持って体験したのだから。水沢侑子……あの廃屋の女から。


 行くしかない、行かないといけないのだ。だが踏ん切りがつかない。行かない理由はいくつも出てくる。だから足が前に出ないのだ。私からすれば、水沢侑子の霊よりも、村人たちの行いの方がよっぽど怖い。生きた人間が生み出す残虐な行為。その結果が彼女や縊魚児なのだから。そして、そんな彼らを動かすものの正体に触れる勇気が、私にはまだない。


 また、足が止まる。この淀みを、雨が洗い流してはくれないものかと願っても、その水滴は逆に私の心を重くする。

 その辺で買ったであろう低クオリティな仮装を身にまとい、傘とスマホを持ちながら自撮りに勤しむ若者たち。承認欲求を満たしにこの記号的なイベントを消化しにきているだけの彼らが、とてもキラキラと眩しく、いまの私の目には映っていた。


「……原さん」


 雑踏の中から、聞き覚えのある声がした。声の方を見ると、20メートルほど先の人混みの中にひまりちゃんの姿を見つけた。傘も刺さずに、青白い顔をしてこちらを見ている。


「あ、あの」


 私が声をかけようとすると、彼女はそれを無視してゆっくりと後ろを向き、人混みの中に消えていく。私は急いでその後を追った。

 仮装が割拠する中を走る。何回もぶつかったし、柄の悪い半グレの男たちにもなにかを叫ばれたような気もする。だけどそんなことは関係ない。誘われるように、彼女の後を追い続ける。似たような風景、似たような店、似たような人々に仮装。雨の中の百鬼夜行から逃げるように、闇の奥深くへと歩みを進める。

 センター街の奥まで来たところで、ひまりちゃんを見失った。たしかにこの道を歩いていたはずなのに。そう思い辺りを見ると、建物と建物の間の路地裏、その奥に立っているひまりちゃんの背中を見つけた。街の喧騒とは切り離されたような、冷たい空間。私はそこに、足を踏み入れた。


「萩原さん、酷いじゃないですか。私、何度も電話したんですよ」


 無機質な声が反響し、路地裏に響く。どんな表情で話しているのか、なにもわからない。


「すみません……色々考えたくて、電源を切ってたんです。DMも、ブロックされてると思っていたので」


 左右の建物の室外機に雨粒が当たり弾ける。その音はどこか川の流れ、激流が岩肌に当たる音に似ている。


「ブロックしてましたよ〜。でも電話に出てくれないんで解除したんです。まぁ、もう遅いんですけどぉ」


 彼女に一歩ずつ近づく。髪は雨にうたれてびしょびしょだし、今日はいつもの地雷系の服じゃなくシンプルなワンピースのようだ。それもまた、雨に濡れ素肌に吸い付き艶かしい雰囲気を放っている。その様相は、どことなく水沢侑子を思い出す。


「まだ四ヶ月なのに、この子が産まれようと、出ようとしてきたんです。この前会ってから、すぐのことでした。それから耐えて耐えて、産まれないように我慢して……でも気がついたんです。萩原さんから聞いた縊魚児のこととか、狙われてるって話で」


 彼女の下半身から、なにか細長いものが垂れ下がっている。細い紐、縄のような、なにか。


「あっ! これはこの子が産まれようとしてるんじゃない。誰かが、なにかが外から引っ張ってるんだって。この子を連れ去ろうとしてるんだって。だから電話したんです。助けてもらおうって。萩原さんならなにか解決策を見つけてるんじゃないかって……でもダメでした〜……だから一眼、見てもらおうって思ったんです♪」


 ひまりちゃんの肩に手を置く。


「ほら、可愛いでしょ♪」


 振り返った彼女が持っていたのは、胎児だった。


 ようやく人の形になってきたであろう胎児が血と雨に濡れ、彼女の両手の平に乗っている。臍の緒はついたまま、彼女の下半身に繋がっている。そしてそれは、胎児の首にも絡み付いている。まるで首を絞めるかのように。


「ぁっ……ああ……ああ……」


 絶句する私の目を、かつてないほど口角を上げ微笑みながらひまりちゃんが見てくる。まばたきもなく、壊れてしまった瞳で。

 目の前の光景は現実だ。彼女は怪異ではない。実在する人間だ。そしてその手の中にあるそれも、この世に生を受けるはずった尊き小さな命だ。




ぎぃ……ぎゃああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!





 胎児が、叫んだ。そんなはずはない。どう見ても生きていない。生き物ではなく物になってしまった存在にしか見ない。でもたしかに、それは叫び声をあげたのだ。産声ではない、一時でもこちらに出てきたことを恨むような、そんな絶叫だ。


ぎゃああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!


 その不快な音に耳を塞ぐ。ひまりちゃんは胎児を嬉しそうに見ている。

 私はあまりの恐怖で足がすくみ、後退りしそのまま路地まで出ると、尻餅をついた。ジーパンに冷たい水が染み込んでいく。

 ひまりちゃんは路地裏からゆっくり姿を表し、私を見下ろす。


「どうしましたぁ? 可愛いでしょう?」


 彼女の嬉々とした声には、負の感情のみが乗っていた。その言葉の圧から目を背けるように、私は叫んだ。


「っ……誰か、誰かああっ!」


 私の後ろを歩く若者たちに助けを求める。彼らは私を酔っ払いか新手のナンパかと思い軽蔑した目で見つめると、すぐにひまりちゃんの方に視線を移した。


「やばー」

「え、すご」

「ちょっと悪趣味だよねw」

「クオリティたけー」


 何人かの人々が私たちの周りに集まり、ひまりちゃんと胎児にカメラを向け、写真を撮り始める。ハロウィンの仮装だと思っているんだ。


「……無理だ、無理だぁ!!」


 この異常な空間、耐えられない。私は逃げた、ひまりちゃんから、あの子供から。


「ねえええええええええ!」


 嘘だろ? 振り返ると、彼女は全速力で追いかけてきている。下半身から垂れた臍の緒を揺らしながら。

 「なんだなんだ」という大衆の目を無視して、必死に彼女を振り切ろうと奮闘するが、水溜りやハロウィンのゴミに何度も足を取られてしまう。

 ようやく人混みを抜け、道玄坂……神泉の方まで来たところで、私の体力は尽きた。ラブホテルの前で座り込む。スッと、私を見下ろす影を感じる。当然、ひまりちゃんだ。

 もうその顔に、笑みはない。恨みのこもった顔で、私を見下ろしている。もういい、どうとでもなれ。肺から冷たい空気が喉を伝う。口の中には血の味がする。


「はぁ、はぁ……はは……やっぱり、運動……しないとですね」


 心から出た本心だった。恐怖より疲労が上回る。心と体を同時に追い詰められると、先に根を上げるのは体の方なのかもしれない。


「……ふふっ♪」 


 ひまりちゃんは最後にもう一度微笑むと、そのまま気を失った。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 「あの!」


 病院の椅子で座る私に声をかけてきたのは、二十代前半くらいの、清潔感のある男性だった。どこかで見たことがある気がする。


「救急車を、呼んでくださったんですよね?」

「あぁ、はい……」

「彼女は……その、どういった状況で……」

「……仕事帰りに道玄坂を通りかかって、そこで倒れている彼女を見つけたんです。それだけで、詳しくはわかりません」

「……そう、ですか……」


 ひまりちゃんの彼氏だ。そして思い出した。彼は最近メディアでもたまに見かける2.5次元俳優だ。有名人と付き合っていると、以前会った際に話していた記憶がある。それは彼のことか。

 彼には、私とひまりちゃんの関係性は話さないでおいた。話しても頭がおかしいと思われるだけだし、なにがあったかを伝えれば混乱するだろう。ただでさえ、これから彼には残酷な現実が待ち受けているのだから。


「それじゃあ、失礼します」

「あ……ありがとうございます!」


 そう言いながら、彼は病室まで走って行った。

 礼を言われることなんてしていない。彼女がああなった責任の一端は、私にもあったかもしれないのだから。もし仮に私が彼女にるるちゃむの件を、縊魚児の話をしなければ、ひまりちゃんは縊魚児に、龍神に見つかることはなかったのかもしれない。だがるるちゃむが狙われてしまった時点で、彼女もターゲットになってしまっていたという可能性もある。それを今ハッキリさせることはできない。だけど……。


 あの子供の声が、頭から離れない。あの子は、縊魚児になるのだろうか。


 どこにいようと、ここまで足を踏み込めば安全な場所なんてないのかもしれない。唯一村人から逃げることができた江本君も、村から離れた水沢親子も、るるちゃむとひまりちゃんもその子供も、悲惨な末路を辿った。私が、私一人が無事で済むわけがない。坂下が私を呪い殺すよりも前に、きっと私も惨たらしく苦しんで贄の一部となるのだ。

 進むも地獄退くも地獄。ならばやることは一つだ。責任を果たす。大人として、先輩として。私自身がケリをつけなければいけない。





私は、島根県の●●村に行こうと思います。

 

 


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