第四章 第20話
「今年の雨季は、長いのねえ」
うんざりしたような声でニコラが言った。
「いつまでもいつまでも降り続いて。このまま雨季が明けなかったらどうなってしまうのかしら」
「明けない雨季なんて聞いたことないよ」
うーん、と大きく伸びをして答えるブルームも、いい加減待機状態が続いて辟易していた。
例年では四月に入った頃から徐々に雨足が弱まるはずなのに、今年は四月の中頃を過ぎても強い雨が降り続いている。
雨季が明けたら結婚の日取りを決めて広く国民に知らしめようと言っていたはずだが、この長雨は天変地異の前触れではないかと噂をされてそれどころでなくなっているらしい。実際、上級文官のローバックは近頃働きづめであるらしく、母がため息をついて心配していた。
このまま結婚の話がうやむやになってしまえばいいのだが、そうはいかないことも、さすがのブルームにも分かっている。
「ああそうだわ、お兄様にまたお手紙が来ていてよ」
思い出したように言う妹を見やってブルームが白い手のひらを出した。
「今日はお手紙だけなのかな」
と訊いた兄に、ニコラはクスクスと笑いながらこう答えた。
「お兄様ったら、お手紙といったら殿下だと思い込んでいらっしゃるのね。今日は残念ながら恋文ではなさそうよ」
「……おいおい、またずいぶんと分厚いのが……あっ、ナニーだ!」
懐かしいその名前と少し丸まった癖字に、ブルームが子供のような声を上げた。
「ナニーはお兄様が大好きだったものねえ。小さい頃はわたくし、えこひいきだと思ってずいぶんお恨みしたものよ」
「まあ、あの人は確かに俺を贔屓していたな。おやつはいつも俺のが一番量が多かった」
いそいそと封筒を開けて、ブルームは便せん八枚にも渡る大作を読み始めた。
この八枚分を要約すると、およそ以下のようなことが書かれていた。
愛するわたしのブルーム坊ちゃま
久しくご連絡を差し上げなかったこと、申し訳ございません。ナニーもすっかり足腰が弱ってしまって、なかなか思うように動けないんでございますから、きっと坊ちゃまは許してくださいますわね。だいたい坊ちゃまだって、お手紙ひとつ寄越さないで、ナニーは少々、おかんむりでございますよ。でもまあ、仕方がないわね。坊ちゃまは昔から本当に筆無精でございましたから。
坊ちゃまが祝福の子であったと聞いて、ナニーは驚くやら、納得するやら、感情が大忙しでございました。だって坊ちゃまは昔から本当にお美しいお子で、こんな綺麗な子は祝福の子であるに違いないと、ナニーも思ってはおりましたが、奥様も旦那様もそんなことありませんよと笑っておられるもんですから、ナニーとしても……(中略)
なにはともあれ、ご結婚式が楽しみでございます。この日ばかりは、なんとしてでも、這ってでもお祝いに駆けつけます。美しくご成人なされた坊ちゃまに、婚礼衣装がさぞかし似合うことでしょう。ナニーはそれを想像しただけでもう、坊ちゃまのことが自慢で自慢で、たまらない気持ちになってございますからね。坊ちゃま、殿下にうんとおねだりなさいませよ。今までのどの祝福の子より美しい婚礼衣装が、坊ちゃまにはお似合いなんですからね。真珠をたくさんたくさん、お飾りなさいまし。
なんてったってこの国で、真珠以上に美しいものなんてございませんもの(坊ちゃまは別です)。大きくて照りの良い一級品の真珠を、衣装にもたくさん縫い付けてもらって、それから、首と頭にお飾りなさいまし。
ナニーは昔から思っておりましたが、坊ちゃまのあの赤い髪! まるで真珠を飾るためにあつらえたようじゃ、ございませんこと? ナニーも昔は……(中略)
と、そういうわけでございますから、坊ちゃまのご婚礼をナニーは首を長くして待っております。アデレード殿下が素晴らしい王子であらせられるというお噂は、この田舎町まで響いております。今は坊ちゃまのことはほんの短く「赤髪の祝福の子が現れた」としか聞こえてきませんけれども、ご結婚式の様子を見た人の口に上ればいずれ、この町でもこんな風に言われますわよ。「殿下はたいそう美しく素晴らしかった。しかし、その隣にはその何倍も美しく気高い赤髪の美青年がおられた」立っているだけで花も霞み、微笑めば鳥をも撃ち落とし、剣を振るえばそれだけで砲台だろうが城壁だろうが崩れ落ちるほどの坊ちゃまですもの、ま、当然のことでございますわね。
ああ、坊ちゃまが祝福を受けて来られて本当に、よかった。ナニーは嬉しくて嬉しくて、感無量というやつでございます。
殿下とは仲良くなさっておられますわね。ただそれだけが、ナニーは心配でございます。あの太陽の王子のことですから、まさか坊ちゃまを悲しませるようなことにはならないとナニー、信じておりますけれども、それでも。それでもナニーは心配なんです。美しく賢くて非の打ちどころのないような王子だとは聞いておりますが……それでも、坊ちゃまには釣り合っておられるんですかしらね。ナニー、半信半疑といったところですのよ、本当のところは。
もしも万が一、おかしなことがありましたらすぐにナニーにお知らせくださいませね。
坊ちゃまは昔から正義感が強くていらっしゃるから、肝心なところでお幸せを逃がしてしまうんじゃないかと……いえ、考えすぎであればそれはよいんです。ナニーの取り越し苦労ならば、それで。でもねえ、坊ちゃま。殿方というのは多少はワガママを言ってやった方が、張り切るものなんでございますよ。なんでもかんでも遠慮して慎み深くしていたら大損なんです。いつだって、高笑いをしているのはワガママでどうしようもない高飛車な娘っ子で……いえね、ナニーの若い頃にね……(中略)
ですから坊ちゃま、もう少し我を押し通しなさいませよ。坊ちゃまほどの美しい人からおねだりされて悪い気のする男なんかいるわけありません。それは王子だろうが王様だろうが、変わりませんわ。ナニーくらいの歳になれば本当にそう思います。王子も王様も男は男ですのよ、坊ちゃま。ゆめゆめお忘れなきよう。
ああそうそう、お祝いにバナナケーキを焼きますわね。今度王都へ上がる時には必ず持ってまいりますから、殿下とお二人で召し上がってくださいませ。坊ちゃまはナニーのバナナケーキが本当に好きでしたわねえ。ナニーそりゃあもう嬉しくて、バナナを見れば坊ちゃまのことを思い出してついこの間もね……(中略)
あらまあ、今見返したらなんとまあ長い手紙でございますこと。ナニー、少々手が疲れてしまいましたわ。まだまだ言い尽くせぬ気持ちはナニーのこの胸いっぱいに詰まっておりますけれども、その分はここに封して入れておきますからね。どうぞその分もよくよく思ってくださいませ。ナニーは心から、坊ちゃまの幸せだけをお祈りしております。長いナニー人生の中でも、坊ちゃまほどお美しくて愛らしい子はおりませんでした。その上誰よりもすばしこくてねえ。昨日のことのように思い出します、あの時坊ちゃまが……(中略)
では、くれぐれもお身体に気をつけて。何かあったらナニーを思い出してくださいまし。どんなに遠く離れても、ナニーは坊ちゃまのためならどんなことだってやってみせますのよ。
龍神様のご加護が坊ちゃまに降り注ぎ続けますように あなたの最愛のナニーより
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