第二章 第5話
初めてのヒートに倒れてから、ブルームを中心にぽつんと独り置いて行きぼりにして、何もかもがめまぐるしく変わっていった。
症状が収まったのだから訓練に戻りたいと希望したブルームを一笑に付した医務官は「バカを言っちゃいけない」と素っ気なく言った。
「本来ヒートというのは数日間続くものだ。今は一時的に薬で押さえ込んでいるに過ぎない。最初だから一週間分の薬を渡しておくけど、効きが悪かったり、何か副作用……そうだなたとえば吐いてしまうだとか眠れなくなるとか、そういうことがあったら専門医に診てもらって。しばらくはお屋敷から出ない方がいいよ。いきなり症状が出て往来で倒れたりしたら大変だからね」
医務官は繰り返して言った。
ヒートを薬で抑えるのは、自然に反する行為なのだ。できるだけ早く、番った方がいい。
「これはそもそも病気じゃない。Ωがαを求めるのは、そしてその逆もそうだが、本能なんだ。祝福の子がαの王に嫁ぐのは運命だ。龍神様の導きのもと、正しい婚姻を望んでいいんだよ」
(番うのか、俺は)
あの太陽の王子と。
近衛兵として末端ながらも今まで護ってきたのは、皇太子のアデレード殿下だった。と言ってもまだブルームは殿下に直接謁見したことはなかった。護衛の命が下った場合でも、殿下の周囲に配置されるのは冠位もそれなりの武官ばかりで、昨日今日ようやく近衛兵になった程度の下級武官が拝顔する機会などあるわけもない。
ブルーム自身の叙任式もあるにはあったが、その際には国王陛下の前にずらりと並んで終始頭を垂れていたので、陛下や殿下のご尊顔を拝することはなかった。
噂では殿下は輝くような金髪のこの世に二人といない美丈夫なのだとか。御目見得できただけで寿命が延びるとまで言われるほどの美貌だそうだ。その上、ご気性も朗らかで落ち着いた素晴らしい人格者、と聞いている。
その雲の上におられるようなお方と、番うだとか結婚と言われても、まったく実感が湧かなかった。
「医務官殿。弟を迎えに上がりました」
低く落ち着いた声に顔を上げると、多忙を極めているはずの兄の姿が目に入った。
「スカリー殿。ブルーム君はそちらに。今は薬がよく効いているようですが、しばらくは何があるか分かりませんのでくれぐれもお大事になさってください」
「分かりました。弟がご迷惑をおかけしました。ところで、検査の正式な結果はいつ出ますか」
事務的にいくつか確認をしているローバックの横顔をぼんやりと見つめるブルームの肩を横からちょんちょんとシャイアが突いた。もう変な感覚に煽られることはなかった。
「ねえ、さっきの話、お前意味分かった?」
ひそひそと声をひそめるシャイアの耳元にブルームも囁く。
「なにがだよ」
「だから、αの王とか婚姻とか言ってたじゃない。あれってどういう意味なの?」
真顔でそう訊いてくるシャイアを、改めて異国の人間なのだなあと思う。この男は普段は察しはいい方で、悔しいが自分より頭の回転も速いのだとブルームは認めている。
「言葉通りの意味だよ。Ωの男は、αの王に嫁ぐって決まってるから」
と答えると一瞬目を丸くした後、シャイアが「えええっ?」と引っくり返った声を張り上げた。
「なにそれ! この国のΩはみんな、αの王様に輿入れするってことなの?」
「みんなじゃないんだって。女のΩは時と場合による。Ωの男は祝福の子だからさ。龍神様の化身であるαの王と結婚するって決まってんだよ、昔から」
「ってことは何よ。お前、正式にΩだったら、殿下と結婚すんのか!」
鳶色の目を爛々と光らせてシャイアが怒鳴った。
「そう、なるんじゃ、ねえのかなあ?」
自信なさげに答えたブルームに、ローバックが呆れ返ったような目を向けて言った。
「なるんじゃねえのかなあ、じゃないだろう。まず間違いなくお前のそれはヒートだ。薬が効いたのが何よりの証拠だろう。スカリー家から祝福の子が出るとは思わなかったが、これ以上ない誉れだ。お前も少しは自覚を持って、その言葉遣いもいい加減どうにかしなさい」
「はあ」
感情が追いつかず曖昧な頷きを返した弟に、ローバックは端正な眉を寄せて口を開いた。
「なんだその腑抜けた声は。何の不服があるんだ」
「そりゃ不服はないけど。ないんだけど、さ。あんまりに話が急で……」
「だからしばらく安静にして、ヒートが収まるまでの間に気を鎮めろ。どう転んでも、悪い話じゃないんだから、ゆっくり考えれば納得できるはずだ」
さあ分かったら帰るぞ。馬車を待たせてあるんだ、と言い募るローバックに、今度はシャイアが言った。
「どう転んでも悪い話じゃないって、何さ。こいつの意思はどうなんの」
「ん? きみは、たしか……」
文官の名前は末端まですぐに出ても下級近衛兵の名前までは覚えきれないローバックに、シャイアは鳶色の瞳に挑戦的な表情を浮かべて続けた。
「おとーとさんのオトモダチ。今日も、こいつが倒れたのここまで運んだのオレだしね」
「そうか。弟が世話になったな。申し訳なかった」
「そんなのあんたが言うことじゃなくねえ? それよりオレは本人の意思が確定しないうちに外堀埋めるようなやり方してんのが、気に入らんのだけどね」
「きみ、異人だろ」
ローバックとしては侮蔑のつもりもない言葉だったが、機嫌を損ねていたシャイアはその一言で完全にへそを曲げた。
「人を見た目で判断してんじゃねえやい、上級文官サマ。ま、確かにオレはどこの馬の骨とも分からんような人間だけども。これでただの地黒だったらどうすんのさ」
「日焼け程度でパルティオの人間がそんな肌の色にはならないだろう」
と言うローバックの見解は正しかった。
パルティオではその特産品の真珠と同じくらい、国民の肌の色が輝くような乳白色で美しいと評判であった。肌が白い分、紫外線に弱い者も多かったが、乾季の間に日焼けをしたとしても半年に渡る雨季の間に自然と白い肌を取り戻すのだ。シャイアのような褐色の肌の人間は、この国の出身でないと宣伝して歩いているようなものだった。
「オレがどこの国の人間だろうと、今それ、関係ないよね? 貴族だからかΩだからか分からんけども、あとちょっとで成人するような男の結婚話を周りが勝手に決めちまうってのが、おかしいんじゃねえのかとオレは言ってんの」
「貴族だからじゃないな。祝福の子だからだ。祝福の子だと分かれば、身分などどうあろうと必ず王妃になる。周りが勝手に決めているんじゃない。龍神様が、お決めになったことだ」
「えっ、それマジで言うとんの?」
シャイアは黒髪を軽く振って、まだベッドの上でぽつねんと座っているブルームを振り返った。
「異人のきみには龍神信仰が奇異に映るのかな。だがこの国ではそれが正義だ。ブルームだって、今は混乱しているというだけで、嫌がっているわけではないんだ。しかも国王陛下はβであらせられる。弟の結婚相手は、あの太陽王子なんだぞ。年齢もちょうど釣り合うし、これが僥倖でなくて、何が幸運だと言うんだきみは」
「いや、いくら殿下が金髪で碧眼で長身で聡明でお優しいと言ったってね。男だからね、普通に。僥倖だっつうんなら、お兄様が嫁(い)っちゃいかが」
わざとらしく殿下の長所を指折り数えて挑発するシャイアに、ローバックはこめかみを指先で強く押さえて言った。
「あいにくと、Ωなのは不肖の弟の方でね。僕はただのβで祝福の子じゃない。精々この国のために必死で金策に走る程度のことしかできないんだが?」
「祝福、祝福うるっせえな。そんなの祝福じゃねえわ。貧乏くじ引かされちゃって、結婚相手も勝手に決められちゃって、これじゃまるきり、呪いじゃないのさ。おたくの龍神様ってのは、そういう奴なんか?」
「おい」
銀縁眼鏡の奥ですっと翠の目を細めて、ローバックが低くすごんだ。
「弟や僕の悪口なら好きなだけ言え。だが殿下に不敬を言うな。そして、龍神様の名を汚すな。罰が当たるぞ、異教徒」
「異教徒っつうかオレ、無神論者なの。ごめんね? 悪いけど、人間様の結婚相手勝手に決めちゃうような厄介な縁結びの神様なんか尊重できない」
「気分が悪い。ブルーム、帰るぞ。馬車が待ってる」
それだけを言い残してローバックはブルームを立たせると、エスコートするように腰を抱いて歩き始めた。
「おい待てよ、マジでホントに弟、皇太子妃にしちゃうのかよ! 龍神様がそう言ったってのか。お前それ聞いたわけ? なんなんだよ、ねえ! ねえ、待ってってば! ちょっとブルーム? お前もなんとか言ったら。お前がはっきりすれば、こんな変な話立ち消えになるんじゃないの。ねえ。ねえ! ねえ、ちょっと、聞いてんのか、ブルーム!」
ずんずん歩く兄に追い立てられながらも、申し訳ない気持ちで振り返ったブルームの翠眼にまだギャンギャンとがなっている友人の姿はまるで負け犬のように映った。
シャイアが一体、何をそんなに騒いでいるのか、ブルームには今ひとつ理解できなかった。
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