第27話 理性の鎖
私の足ではなかった。
まるで他人の体のように、私の意思を無視して動く。
一歩、また一歩と、恐怖に引き攣った顔で後ずさる若い男へと、確実に距離を詰めていく。
私の体は、もう私のものではなかった。
頭の中で鳴り響く声の、ただの操り人形。
『そうだ、それでいい』
『あの男を捕まえろ』
『そうすれば、お前は鬼ではなくなる』
声は、甘美な蜜のように私の思考を溶かしていく。
そうだ、この苦しみから解放されるのなら。
この、仲間から怪物を見るような目で見られる屈辱から逃れられるのなら。
男一人の犠牲など、安いものではないか?
「やめろ…来るな…頼むから…!」
男が涙ながらに懇願する。
その声が、私の心の奥底に、かろうじて残っていた理性の鎖を、激しく揺さぶった。
私はチーフパーサー、宮内咲良。
乗客の安全を守ることが、私の使命。
たとえ、それが死後の世界であったとしても、その魂までは、まだ鬼に売り渡してはいない。
(動け…私の体…止まれ…!)
心の中で叫ぶ。
しかし、体は命令を聞かない。
無情にも、男との距離はあと数歩にまで迫っていた。
逃げ惑っていた他の乗客たちも、足を止め、固唾を飲んでこの惨劇の行く末を見守っている。
誰も助けてはくれない。
誰も、私を止めてはくれない。
あと一歩。
手を伸ばせば、彼の震える肩に届く。
指先が、ぴくりと動いた。
声が、脳髄を直接揺さぶるように絶叫する。
『今だ! 捕まえろォ!』
その瞬間。
「いやあああああああああっ!」
私の喉から、人間のものではないような、凄まじい絶叫が迸った。
最後の力を振り絞り、伸ばしかけた右腕を、左手で掴んで引き戻す。
爪が食い込み、血が滲む。
その鋭い痛みが、麻痺しかけていた私の意識を、現実に引き戻した。
「私は…あなたたちの、敵じゃない…!」
ぜえぜえと肩で息をしながら、私は叫んだ。
誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせるように。
腕を無理やり引き戻した反動で、頭の中の支配的な声が、プツリと途絶えた。
しかし、それと引き換えに、頭を内側から万力で締め付けられるような、激しい痛みが襲ってきた。
視界が白く点滅し、立っていることさえままならない。
私は、その場に膝から崩れ落ちた。
遠くで、石を積む手を止めた美咲が、不思議そうにこちらを見ていた。
そして、心底つまらなそうに、ぽつりと呟いた。
「…つまんないの」
その声を聞いたのを最後に、私の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。
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