第8話 石の供物
「だって、みんな、もうお家に帰れないんだもん」
伊藤美咲の言葉が、私の頭の中で木霊し続ける。
それは子供の無邪気な残酷さではなく、世界の真理を告げる神託のように響いた。
お家に帰れない。
その言葉の本当の意味を、私の本能は理解し始めていた。
私たちは、もう——。
思考を遮ったのは、男の怒声だった。
機内後方で、最後の食料であるクラッカーの箱を巡り、二人の男性が胸ぐらを掴み合っていたのだ。
「離せ! これは俺が見つけたんだ!」
「ふざけるな! 子供だっているんだぞ! 少しは分け与えるのが筋だろうが!」
生存本能が理性を食い尽くし、剥き出しになった醜いエゴがぶつかり合う。
私は止めなければと身体を動かそうとしたが、足がすくんで動けなかった。
意味がない。
この盤上で争うことなど、何の意味もない。
美咲ちゃんの言葉が、私から全ての行動理念を奪い去っていた。
その、争いが最高潮に達した瞬間だった。
機体の裂け目から、すぅっと白い影が入り込んできた。
あの老婆だ。
その姿を認めた瞬間、あれほど騒がしかった機内が、水を打ったように静まり返る。
老婆は、何も言わず、ただゆっくりと腕を上げた。
そして、その皺だらけの長い指が、食料を独り占めしようとしていた男を、ぴたりと指差した。
「ひぃっ…!」
男は短い悲鳴を上げ、その場にへたり込む。
しかし、老婆は近づいてこない。
ただ、指差したまま、じっと男を見つめている。
次の瞬間、誰もが息を呑む光景が広がった。
機体の外、河原に転がっていた無数の石が、まるで生き物のように宙に浮き上がったのだ。
そして、意思を持った弾丸のように、一斉に男の身体へと殺到した。
ゴッ、ゴッ、ゴッ。肉を抉り、骨を砕く鈍い音。
男は悲鳴を上げる間もなく、その身に次々と石をめり込ませていく。
それはもはや、石化ではなかった。
肉と石で塗り固められた、おぞましい供物。
人間の尊厳を微塵も感じさせない、ただのオブジェがそこにあった。
「あ、鬼さん、次の人を見つけたみたい。欲張りさんは、早くお休みしなくちゃね」
私の隣で、伊藤美咲が楽しそうに手を叩いていた。
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