08『Sprinter』
未紗季の背中が遠くなってゆく。
右手にはオブジェと化した戻らぬ日々、左手には弄ばれる青少年たち。大人になれないまま生涯を終える。未紗季は、あんなに足が速かっただろうか──そう思ったときにはもう
走りが浮いている。落ちてほしいところに足が落ちている。
すごく気持ちが良かった。
日野つかさが短距離走という種目を選んだのは、ひとえにシンプルだからである。
ランニングにおいて大切な要素は大きく分けて二つ、
その明快さが性に合っていた。
「
休み時間──未紗季の発した何気ない一言に、つかさは顔を僅かに強張らせる。
「気づいたぁ~ミサミサ? カワイイっしょ?」
「可愛いけど──バレないように気をつけなよ?」
「ヘーキヘーキ。私、
朱羽はそこで言葉を切って、未紗季をまじまじと観察した末──。
「ぇあ~、どっか変わった?」
長いまつ毛に縁取られた目を
「うーん、特になんにも」
「いや、思うじゃん。ンなフリされたら。私のにも気付いて的なアピールって思うじゃん」
「私は、今日も宮ちゃんはオシャレだなぁと思って言ってみただけでーす」
「おっ、カワイイなぁコイツ。ちゅっちゅしてやろうか? まっ、小細工しなくてもミサミサは仕上がってるかンなー」
こういうテンポになると、つかさは聴き役として徹する他ない。
「おい、宮本ぉー」
一人の男子が、英語の教科書片手に近づいてくる。隣のクラスの
「なにー? この前貸したAV返せって? レンタル期間短くない?」
「おまっ──そういうの信じる人いるかもだからな?」
言って、大渕が未紗季に一瞥をくれる。そんな不安そうな目をしなくても、未紗季のあなたに対する評価はもとよりそう高くないぞと心の中でツッコミを入れる。差し出されたそれを朱羽はどーもねーの一言で受け取った。
「なあ、こういうのってフツー借りる側が取りに来ねぇ?」
「ブチ知らんのー? JCは日本の最上級国民よ?」
「あー、家出なうって唱えたら神が迎えに来るし?」
「そそっ、で、バーキンとか奢ってくれる」
「そこマックじゃねーのクッソリアルな──あのさ、水原さんの前だしこのノリ止めん?」
私の前でもあるけどな──というツッコミは、これまた心のうちに押し留める。
未紗季は、両手で口許を隠してくすくすと笑っていた。絵になる。それだけで、場に馴染めてしまう華がある。どうせ愛想笑いなのだろうが──。彼女のそれに限っては、正直見抜ける自信がなかった。
つかさの"外向性"は、朱羽の模倣だった。
ジョークの瞬発力とか、物怖じしないところとか。とどのつまり、二番煎じ。天然モノである朱羽には敵わない。彼女の前では、男女の垣根はおろか、先輩後輩の上下関係とて意味をなしていないように見えた。あちこち着崩しているくせ、何故だか教師受けまで良かった(実際、担任の松岡は特段朱羽に甘かった。彼女の"発育"が中学生離れしていたせいかもしれない)。
つかさの"協調性"は、未紗季の模倣だった。
こちらもまた、天然モノである彼女には歯が立たなかった。
互助関係を築く才に長けていた。一人では往復必至の配布物にうんざりしている最中、面識のない男の先輩から「水原さんの友だちだよね? 手伝うよ」とやたら爽やかに言われたときは、流石に耳を疑った。
つかさにとって二人は親友であり、模倣するべきオリジナルであり、そんな彼女らに挟まれている時間は楽しくて、誇らしくて、少しだけ窮屈だった。
「私──絶対前世男だったと思う」
机にしなだれたつかさのぼやきに、未紗季が目をぱちくりさせた。
「
「知ってるよ⁉ いや、何ていうかさ、どうしたら──もっと色々気が回るのかなって」
──未紗季みたいに。
知らず、鬱々とした声色になっていたので。
「いやー、やっぱ前頭葉を鍛える脳トレとかしなくちゃダメなのかなー」
前頭葉が何をしている部位なのかさえ知らないくせ、これは悩みではないと。聴くに値しないのだと、誰より自分に偽装する。
なのに。
「私は、つかさちゃんと一緒にいるだけで楽しいよ?」
即答だった。ある意味求めていた答えだった。
こんなにも、あっさりと。真意を掬い、最適解を出してしまう貴女が。
ちょっとした自慢で、ちょっとだけ怖くて、
「──うん、私も」
大好きだったよ。
やっぱり──トラックに比べると廊下は硬い。接地の衝撃に耐えるべく、足の筋肉を余分に動員させなければならない。
なぜ短距離走なのか。ハードル走や跳躍種目では駄目なのか。
「だって、地面があれば走れるでしょ」
場所や道具にこだわらなくたって、地面があれば練習できる。
その答えに貴方は小さく目を瞠ってから、
「なんか、かっこいいな」
夏の木漏れ日みたいに──笑った。
なぜ短距離走なのか。思い出した。
貴方がかっこいいって言ってくれたからだ。
長瀬。
回転数を上げる。
頭にある理想のフォームへ、現実のそれが差し迫る。
もう一段階、いまより澄んだところへ。
「どう? 俺と水原。脈アリそう?」
机一個分の距離を挟んで。そう訊いてくる長瀬に、つかさは目を合わせられないでいる。デオドラントスプレー。わざとらしいミントの匂いも彼から香るものだと思えば、何故だかちっとも厭ではなかった。
「わっかんない。っていうかさ」
「うん」
「未紗季の──どういうところがいいなって思うの」
「あー、水原ってメッチャ聴き上手だろ? 頷いてほしいタイミングで頷いてくれるし、割って入ってくんなよってときは絶対割って入ってこないし、ウケてほしいところで笑ってくれる。けど、ふとああこれ俺のこと見てないわ──って思うときがあるんだよな。女子と二人でいるときとか偶にあるんだよ。あー俺いま品定めされてんだろうなーって感じちゃうとき。あれともまた別っていうか、ホント眼中にない感じ。そこがミステリアスっつーか」
何考えてんのか知りたいなぁ──って。
なんで。
かわいいとか、やさしいとか、守ってあげたくなるとか。
そういう──浅い理由じゃあないんだよ。
「めっちゃ──語るじゃん」
「うっせぇ。まあ、ダメだったら来年またチャレンジする」
「しつこいの嫌われるよ」
自分でもわかる声の刺々しさが厭になる。
長瀬が、不服そうに目を細めた。
「女子ってそういうところあるよな」
それが、日野ってそういうところあるよな──だったら、どんなに嬉しかったことか。
「日野に未来の水原の気持ちなんてわからないだろ?」
いつの間にか、鬼ごっこをしていた。
未紗季と二人、記憶のどこにもない、深い森の中にいて。二人とも小学三年生くらいの背丈に戻っていた。不思議だった。自分と未紗季が知り合ったのは、中学に入ってからだというのに。そこには、競争も自己ベストもなかった。つかさも未紗季もただ楽しくて、走り回っているだけだった。お互いが一瞬、追いかける相手より速ければ、追いかけてくる相手より速ければ、それでよかった。
未紗季の背中に、両手でタッチする。
つよく、押し過ぎてしまったかもしれない。
フィニッシュラインを駆ける。テープが揺らいで、風に大きく舞い上がって。
見えているのは、四角く切り取られた水色の空。長瀬と二人、同じ方を向いて、机一個分の距離を隔てて座っている。もしかしたら、誰かが盗み聞きしているかもしれない。
それでも。
──ダメだったら来年またチャレンジする。
来年があるなら、いい。昨日の自分よりいい成果を出したいという欲求をただ満たせるよう努めるだけ。リップをさっと塗った。甘夏の匂いが勇気をくれた。もう一段階、いまより澄んだところへ。
「長瀬、私さ──」
誰かが、ストップウォッチを押した。
※
未紗季はうつ伏せに倒れたまま、貌の底面に取り込まれてゆく親友を見ていた。
背中を押されて、転んだと同時に聞こえたのは、ぐしゃりとしか形容しようがない音で──。あんなに大きな口があるのに、使わないのか。というより、捕食しないわけではないのか。食べるのはあくまで攻撃手段の一つ。そういうことなのか。近づいて来るそれを見ながら、どっちだろうなと思う。叩き殺されるのか。取り込まれるのか。
窓の外に目をやった。足りないよなぁ、落っこちたって一階だものなぁ。
空には、青い風船が佇んでいる。
「たすけてよ」
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