カルノ物語 

佐々目チカ

序章

榧の舟

 西の空が、朱から紫へと溶けていく。


 海辺の木々の影は長く伸び、夜の気配がしっとりと降りきた。空には白い十六夜の月が、夕焼けの残光の中にぽっかりと浮かんでいた。


 徐々に闇に包まれていく砂浜で、真魚まおは浜に置かれた小舟に横になり、暗い海の上に浮かぶ、ほのかな空を眺めていた。


 かやの丸太で作られた小舟からは、柑橘類に似た爽やかな香りが立っている。削りたての木肌は、頬に触れるとザラリとしているが不思議に暖かく、手斧ちょうなの跡を無意識に指で辿ってしまう。このまま眠りに就いたら、さぞかし良い夢が見られそうだ。


 真魚が、生まれ故郷である「伊国いこく」で過ごすのも今夜が最後だ。明朝には隣の大国、「楊国ようこく」の都へと旅立つ。男としてこの小さな国に生まれて十七年、過ごした時には、あまり良い思い出はない。親から離され、周囲の視線から逃れる日々は、真魚を慎重で警戒心の強い男にした。


 そっと月に向かって両の腕を伸ばすと、湿気をおびた海風が肌に絡み、磯の香とともに慣れ親しんだ男の気配を運んできた。


「真魚、ここにいたのか……探したぞ。この舟の完成にはもう少し時間がかかりそうだ……お前の旅立ちに合わせて、足の速い刳舟を作ってやりたかったのだが……済まなかったな」


 木が軋む音とともにわずかに船底が揺れ、シムランの低い声が近づいてきた。真魚よりも四歳年上の美しい男である。


「ああ、出発が早くなったから……予想はしていたよ」

 小さく相槌を打ちながら、真魚は己の腕が、月の光に白く浮き上がるのを眺めた。


 真魚は決して弱弱しい男ではない。剣術や柔術の訓練によって鍛えられた筋肉は、すらりとした骨格によくなじみ、大人の男の武骨さこそないが、均整の取れたしなやかな体を持っている。切れ長の緑色の瞳には強い意志が宿るが、細い首から流れるような薄い肩、柔らかな茶色の巻き髪を一つに結わえた姿からは、中性的な魅力を醸し出していた。


 実際、外海で重い船帆を自由に操る逞ましさは持ち合わせていない。シムランはそんな真魚のために、かやの丸木で小さな刳舟を造ろうとしていた。きっとこの舟は、操船こそ難しいが、慣れれば非力な者でも自由に進める足早の舟になるだろう。


 十八歳を迎える次の春、この舟で真魚は故郷である伊国を離れる事になっていた。しかし、盟主国である楊国からの急な出廷命令で、この秋、半年ほど早く旅立つことになったのだ。


 真魚は、自らの両腕の先にある、シムランの長い銀髪と、遠い異国の血を連想する褐色の肢体を見上げた。寡黙で強く、美しい男の瞳は黒曜石のように黒く輝いている。月を背に立つ明媚な男の表情はこちらからは伺い知ることはできないが、その瞳は自分だけをとらえているにちがいない。


 ふっと空気が流れる音がした瞬間、真魚の視界は、銀糸のような髪と、そこから覗く暗い瞳に埋もれた。


「シムラン、舟は届けてくれないか。都には何度か来るのだろう」

 真魚のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、シムランの薄い唇が真魚の睫毛に触れ、そのまま唇に落ちる。何度か誘うように触れたそれは、耳から首へと、まるで月に照らされた光の線を追うかのように躰を彷徨っていく。


 シムランの気配を何一つ逃さまいと、張りつめていた真魚の皮膚を、冷たい指先が伝い、両の手首の自由を奪う。下肢を押し付けられた腹には、薄い衣越しに固く熱い欲望を感じた。


「……真魚、舟は届ける。お前が俺を忘れないうちに」

 熱を帯びた体で、一回り小さな真魚を抱き起し、えずきながらささやきかけるシムランの頭に、真魚は自由になった両の腕を優しく回しながら、黒い瞳を正面から捕え、体の奥底にある気持ちを呟いてみた。


「すぐにまた会えるだろう……僕は正直、出発が早くなって浮かれているよ。もうここで生きるのはうんざりだ」


 ひりついた言葉が闇に溶けたかと思うと、シムランの瞳が鈍く輝き、愛撫は唇から首筋へと落ちていく。


「ん、や、やめて」


 真魚は、何時にない雄の匂いに咽ると同時に、腹の奥でどす黒いものが蠢くのを感じ、その恐怖から思わず体を返して逃げようとした。だが、男はいとも簡単に真魚の細い腰を後ろから片手で抱きかかえ、残った片方の手で顎の自由を奪うと、唇の隙間から自身の肉厚な舌を滑り入れた。


 混乱した真魚がいやいやと首を振って唇をほどこうとすると、紅潮した顔を覗き込んだ黒い瞳が、ふっと細くなった。


「シムラン、いやだ……お願いだから、やめろ……」


 真魚は、大人の男の体重に押しつぶされる息苦しさに顔をしかめながら、はっきりと拒絶の意志を告げた。シムランの体が一瞬緊張したかと思うと、指は動きを止め、真魚をなだめるように優しく抱く手に変わった。熱い吐息をふっと漏らした後、自分に言い聞かせるように呟く。


「真魚、お前はどこにでも行けるし、何者にもなれる。誰よりも早く、誰よりも遠くへ行け」求めていた言葉を真魚は男の肩に額を載せながら聞いた。



 いつの間にか月は真上に上り、ほてった男たちの肌に、秋の夜風が沈静を運んできた。舟縁に腰をかけ、暗い水平線を睨んでいた真魚の耳に、砂浜に寝転がって空を仰いでいたシムランの口から、細く澄んだ歯琴しきん歌が流れてくる。


 いや、歌ではない、声なのか、はたまた呼吸そのものなのか。眼下に直接染みこむようなその音色は、真魚が物心ついたころから耳にした心静める心地よい響きで、懐かしく甘い時間を思い出させるものだった。


「そろそろ義父上達のところに戻ろう。送別の夕餉の途中で抜け出してきてしまったから。遅くなるとまた怒鳴られる」


 後ろめたい気持ちを振り切るように、真魚が衣に付いた木屑を払いながらおどけてみせると、シムランは上目使いに、ふっと笑みをこぼした。そして砂浜から起き上がり、手首をひらひらと振りながら顔を背けると、森の向こうに灯る明りに向かって大股で歩き出した。


 真魚は、行為によって乱れた着衣を直し砂浜に降りると、舟の腹をポンとはじいてみる。夜の闇を照らすような、明るく響くその音に背中を押され、森に消えていくシムランの姿を追いかける。


 真魚は、明日の旅立ちへの期待が、別れの悲しみに勝っていることを自覚していた。




 

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