第5話 邂逅

「従えば、報われるよ、バルク」

ラザールの言葉が頭をぐるぐると巡った。

薄暗い商館の奥。燭台の炎が揺れ、壁に刻まれた幾何学の模様が光に映る。

「今日はもう遅い。また明日来なさい。その時にお願いする荷物を見せることにするよ」

そうラザールは言った。

荷車のわき、首を垂れたバルクの意識は混濁していた。

甘く香り立つのは麻薬のそれか。それとも誰かが流した血の匂いか。

意識の針はラザールの商館へと巻き戻る。

「バルク。私は君に期待しているんだ。シングラの君がここまで頑張っているのだから、是非とも私の力になってほしいんだよ」声は低く響く。

「でも立場というものがあってね。下の者がうるさいんだ。実績が足りないとね。まぁしょうがない。確かに君とは初対面だ。彼らがそう言うのも分かる。悪気はないんだよ」

燭台の前に立つラザールの顔が、ぼんやりと照らされる。

「無いものは作ればいい。そうだろう?だからね、私の古くからの友人に荷物を届けてほしいんだ。大事なのはこれさ」

ラザールは棚から書簡を取り出す。

深紅の蝋に金箔が混じり、双頭のラクダとその首に絡む蛇の模様がしっかりと刻まれている。

「君も聞いたことがあるかな?レイエスタールから遥か南方、その土地に住む人々はウィペラという蛇の神を信仰しているんだ。大地の豊穣と生命力の象徴がそのシンボルなんだよ。ここには砂の教えがあるね。これはどちらかというと唯一神という絶対のものではなく、世界そのものに対する畏敬の心が多元的に神を構築していると考えられる。一方でウィペラ神教は蛇という生き物を神格化しているんだ」

唐突に始まった宗教論にバルクは困惑を隠し切れなかった。

「いや、あの…ええと…すみません。そのウィペラ神教というのがその書簡とどういう関係が?」

バルクはたまらずラザールに尋ねる。

「あぁ、すまないね。ソキエタスはその規律上、一方通行の考え方を極端に嫌うんだよ。異邦の宗教観なんてものはもってのほかさ。曲がりなりにも評議会である程度の立場である私がそのウィペラ神教を信仰しているなんて公にはできないんだ。私には私の信じるものがあるだけなんだけどね」

ラザールは少し寂しそうに微笑む。

「その友人とは若いころ苦楽を共にした仲なんだ。彼も熱心な信者でね。つまりそういうことさ。知己と酒を飲みかわすことすら私には難しいんだ」

ぽつりぽつりとこぼすようにラザールは言葉を紡ぐ。

「彼が近々宴を開くと聞いてね。ささやかながらお祝いの品を贈りたいんだが…その中にあるのは…あまり綺麗なものばかりではないんだ。清濁併せ吞むのが一流の商人だとは思わないかい?」

ラザールの声は柔らかく、毒のように滑らかだ。

バルクはラザールの言わんとすることを直ぐに察した。

富と権力が唯一の存在証明となるソキエタスの中に聖人君子など存在しないのだ。

「ラザール様。私にこのような機会をいただけたこと光栄至極に存じます。もとより危険は覚悟のうえ。必ずやご期待に応えてみせます」

ラザールの音とは対照的にバルクの声には熱気がこもる。

「ありがとう。バルク。よろしく頼むよ」

ラザールは怪しげに微笑んだ。

「出発は、そうだな…5日後の朝だ。出門の手筈は慣れたものだろう?君に託したよ」

書簡をバルクの右手に握らせ、左手を添えさせる。

包み込むように触れているラザールの手は恐ろしいほど冷たく感じた。



あの時決めた覚悟に後悔が覆いかぶさる。

「…てる…のか?」

「聞いているのか?」責める声にふとバルクは我に返る。

「ザルカドが目的地だな?」ザインがバルクに詰める。

「あ…あぁ。そうだ。ザルカドのあるお方へ荷物を届ける」

声も枯れ枯れバルクは答えた。

「そうか。ではザルカドに向かう。早く立て」

ザインの言葉に感情は無い。

「ちょ…ちょっと待ってくれ。なんで仲間を裏切った。お前は誰なんだ?」

ようやく意識がはっきりとしてきたが、状況が全く理解できない。

バルクはまくしたてるように言葉を発する。

「仲間?あぁこいつのことか」

ザインは地に伏せたガラドをまた無関心に見つめ言った。

「こいつは仲間でもなんでもない。ただ利用しただけだ」

「利用?どういうことだ?この交易路を通る荷車を狙っていたのか?」

「お前が全てを知る必要はない。俺が用があるのはお前の依頼主だ。俺は傭兵としてお前に就く。お前は自分の仕事をこなせばいい」

ザインは長柄鎌を濡らす血をふき取りながら淡々と続ける。

「俺の傭兵になる?それならクロト兄弟を殺す必要はなかったじゃないか!事情を説明してくれればいくらでもどうにかなったかもしれない!」

バルクの声が震える。

傭兵と雇い主という関係に打算も多いにあったが、三人を不憫に思う気持ちに偽りは無かった。

「ああ、そうだな。別に死ぬ必要は無かった。だが死んだ。それだけのことだ」

ザインの心情に揺らぎは感じられない。

そして続けた。

「別にお前にだって死ぬ必要はない。ただ次の瞬間その五月蠅い口が付いてる講釈垂れの頭が胴体から離れることだってあると思わないか?」

その一言にバルクは絶句した。

目の前にいる人間がまるで自分とは別の生き物のように感じられた。



あれからしばらく荷車は進み、だんだんと陽が傾きかけていた。

従者とクロト兄弟の亡骸はそのままにした。

いずれ砂が全てを覆うだろう。

「鳥のように我は帰らん。砂へ返るときはこの血を捧ぐ」

出発の際、地面に膝をつきバルクは詫びるように呟いた。

ザインはそれを咎める訳でもなくただ空を見つめていた。

幸いにも他の従者とラクダは無事だったので荷車の運搬に影響は無かった。

一行は誰ひとりとして声を発する者もなく行程を辿る。

時折嘶くラクダの声がひどく物悲しく聞こえた。

少しずつ涼を帯びてきた風がひゅうひゅうと吹きすさぶ。

その風の音は時としてバルクの耳にクロト兄弟の無念を投げかけているようにも感じられる。

バルクの喉はカラカラに乾いていた。

ザインの言葉が頭の中で反響し、冷たく鋭い刃のように心を切りつける。

バルクは意を決してザインに話しかけた。

「そろそろ陽が沈む。夜営の準備もしなきゃいけないし、従者の体力も限界だ。今日はこの辺が潮時だ」

ザインは少し考えた後「わかった」と答えた。

やがて辺りには闇の帳がおり、夜が訪れた。砂漠の夜は昼とはまるで別世界だ。

空には無数の星が瞬く。

バルクは熾した焚き火にあたりそっとザインの様子を伺う。

ザインは黙って座り、長柄鎌を膝に置いてじっと炎を見つめている。

額の赤い刺繍が爆ぜた火花に照らされる。

その無表情な顔は、まるで人間ではなく彫像のようだった。

「水、飲むか?」バルクはザインに水袋を差し出す。

ザインは無言のままそれを受け取り一口あおる。

「なあ。ザインといったか。お前は俺の傭兵になると言った。つまり金が目的なのか?俺はこの仕事に全てを賭けていた。クロト兄弟には悪いが目的が達成できるならそれでいいんだ」バルクは今の率直な心境を吐露した。

薄情と思われるかもしれないが、そうでなくてはこの世界では生き残れない。

ましてここから成りあがっていくためにはそれぐらいの気概がなければ強者の餌になるだけだ。

ザインは小さく笑った。初めて見せる感情だったが、それは冷たく乾いた笑いだった。「お前も大概だな。商人なんていう連中はみんなそうなのか?」

ザインの皮肉めいた一言にバルクは返す。

「どうかな。ただ俺には野望がある。ソキエタスに入って力を付け、金を稼ぐ。利用できるものはいくらでも利用するつもりだ」

バルクの言葉に、ザインの目が一瞬だけ鋭く光った。

焚き火の炎が揺れるなか、砂漠の夜の冷気が二人の間に漂う。

ザインは水袋を手に持ったまま、ゆっくりと首を振った。「野望、か」

声にはどこか嘲るような響きがあった。

「ただただ金を稼ぐ。それが商人としての夢か?ずいぶん小さくまとまった話だな」バルクは眉をひそめ、ザインの言葉に反発するように身を乗り出した。

「小さく?お前には分からんだろうが、ソキエタスはつまるところ力の象徴だ。そこでのし上がれば、このレイエスタールで絶対的な立場を築ける。金はただの道具だ。それを使って俺は――」「何を?」ザインが遮った。

声には感情がほとんどなく、ただ冷たく突き刺さる。

「権力?名声?それとも何かもっと高尚なものか?お前みたいな奴が何を握ったところで、結局はラザールの様な更に巨大な者の掌で踊るだけだ。分からない訳はないだろう?」

バルクの顔が一瞬強張った。

「お前…ラザールの名前をどこで?どうして知ってるんだ?」

ザインは無表情のまま、バルクの動揺を静かに見つめた。

焚き火の爆ぜる音が、まるでバルクの心臓の鼓動のように響く。

バルクの頭は混乱で一杯だった。

バルクはラザールの名前を一度も口にしていない。

なぜこの男がラザールのことを知っている。

「どうした?名前ひとつでそんなに慌てるなよ。俺がラザールを知ってるのがそんなに驚くことか?この砂漠じゃ、力を持つ者の名前は風に乗ってどこまでも届くさ」

ザインが軽口を叩く。

「ごまかすな!」バルクは思わず立ち上がった。

声は荒々しく、砂漠の静寂を切り裂く。

ザインは動じず、ただ焚き火の向こうのバルクを見つめている。

額の赤い刺繍が火の光に照らされ、まるで生き物のように揺らめいた。

その時バルクはその模様に目を奪われた。

指輪の様な造形に蛇が巻き付き、横を向いた顔から長い舌が伸びている。…蛇。

「その刺繍…」バルクの声が低くなる。

「もしかしてウィペラ神教のものか?ラザールが話していた…。お前、ラザールとどういう関係なんだ?」

ザインの唇がわずかに動いた。

笑みとも怒りとも取れない微妙な表情が浮かぶ。

「案外目がいいな。だが、余計なことを考えるなよ。お前はただの運び屋だ。まぁいいだろう。まずさっきの質問に答えてやる。俺の目的は金なんかじゃない」

バルクが改めて問い直す。

「じゃあ一体何なんだ?」

ザインは一瞬、星空を見上げた。

まるで言葉を選ぶように、しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。

「俺の目的は…復讐だ」

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