第21話 「捕り物劇」
控室の空気は、いつもとはまるで違っていた。
蛍光灯はいつも通り白々しく光っているのに、その下に並ぶ机や椅子がまるで別の場所のもののように見える。黒木塾長が穏やかな表情を装って座っており、その周囲には刑事が数人、控えめに立っていた。
俺は端の椅子に腰を下ろし、呼吸を殺すように静かにしていた。他の講師たちも皆同じだった。普段なら、コンビニ袋を破る音や、缶コーヒーを開ける音が響いているはずの場所。けれど今は誰も余計な音を立てまいとしている。
一人の刑事が、手元の資料をめくりながら口を開いた。落ち着いた声だが、耳の奥に残る重みがある。
「山本さん、佐伯さん。少し詳しくお話を伺いたいので、ご同行願えますか」
静寂が一気にざわめきに変わった。
「え、山本さん?」
「佐伯さんも?」
同僚たちが小声で囁き合う。塾長はすぐに口を挟んだ。
「心配はいらない。形式的な確認のためだそうだ」
柔らかな調子だったが、その目の奥には張り詰めたものが漂っているように見えた。
名指しされた二人——山本と佐伯が、ぎこちなく立ち上がった。山本の口元が引きつり、声が震える。
「な、なんで俺たちが……?」
その瞬間、佐伯が机の上に手を伸ばし、事務机のハサミを掴んだ。隣にいた女性職員の肩をぐっと引き寄せる。
「来るな! 寄るな!」
掠れた声が控室を切り裂く。
講師の一人が悲鳴を上げ、椅子を倒して立ち上がった。紙が床に散らばり、空気が一瞬で張り詰める。
佐伯の腕は小刻みに震えていた。ハサミの刃先が女性の肩口で揺れるが、まるで力が入っていない。素人が必死に虚勢を張っているだけなのは誰の目にも明らかだった。
「やめろ!」
刑事が声を張る。同時に、もう一人の刑事が山本の腕を後ろからがっしり掴んだ。
「放せ! 離せよ!」
山本が必死に暴れる。机に肘がぶつかり、置かれていたペン立てが倒れて床に散らばる。
だがその抵抗は長くは続かなかった。刑事の動きは冷静で素早い。山本の体はあっという間に机へ押し付けられ、うめき声が空しく響く。
佐伯も同じだ。ハサミを握ったまま女性を連れ出そうとするが、刑事の一人が横から腕を払うようにねじ伏せた。
「っ……!」
ハサミが床に転がり、乾いた音を立てた。佐伯の身体はすぐさま押し倒され、腕をねじり上げられる。女性職員はよろめきながら解放され、壁際に避難した。顔が青ざめている。
「……暴れるなら話は別だ」
刑事の一人が低い声で告げる。次の瞬間、金属音が「カチリ」と響いた。山本と佐伯、それぞれの手首に冷たい手錠がかけられる。
その場に沈黙が落ちた。つい先ほどまでただの控室だった場所に、別世界のような静けさが漂う。散らばったプリントが床でめくれ、紙が擦れる音だけがやけに大きく耳に届いた。
「任意同行の予定だったが……今ので話は変わった」
刑事が短く言った。
「暴行未遂と器物損壊の現行犯として、逮捕する」
その言葉が宣告のように突き刺さった。周囲の講師たちは誰も声を発せず、固まったように二人を見つめている。塾長は静かに立ち上がり、周囲に視線を巡らせた。
「皆さん、動揺していると思うが……授業は予定通り行おう。生徒たちに不安を与えないことが、今の私たちの務めです」
落ち着いた声だった。動揺を抑え込もうとするかのように、淡々とした響き。
山本と佐伯はうなだれたまま刑事に引き立てられ、控室を後にした。足音が遠ざかっていき、ドアが閉じられる。
残された俺は、まだ胸の鼓動が収まらなかった。
(昨日まで普通に授業をしていた二人が、いきなりこんな形で消えていくなんて……)
まるで夢の中の出来事のように現実感がない。けれど、机の上に転がるハサミの刃先が、冷たい光を放ちながらそれが現実だったことを突きつけていた。
廊下からは、生徒たちの笑い声や靴音が響いてくる。
この部屋でたった今起きたことと、ドア一枚隔てただけの日常。
その落差に、背筋が寒くなった。
(非日常と日常の境目なんて、本当に紙一重なんだ……)
そう思いながらも、俺の心の奥では、また別の不安が芽生えていた。
(山本さんと佐伯さんが捕まった……)
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