第20話 「静かな訪問」

 放課後の塾の控室は、いつものようにざわざわしていた。

講師たちがそれぞれの机に広げたプリントに赤ペンを走らせ、コピー機の動作音が定期的に響き、缶コーヒーのプルタブを開ける音が交じり合う。

一見すると、日常そのものの光景だった。


けれど、俺にはどうしても気になることがあった。

視線の端に映る二人——山本さんと佐伯さん。

山本さんは数学担当で、冗談を交えながら生徒の心を掴むのが上手い人だ。佐伯さんは英語を担当していて、どちらかといえば寡黙で真面目な印象が強い。普段なら周囲に溶け込み、何の違和感もなくその場にいるはずの二人だった。

だが今日は違った。


山本さんはプリントをめくる動作がやけにせわしなく、ページを一度見ただけで、またすぐに戻したりしている。集中しているというより、落ち着かずに手を動かしているように見える。


一方の佐伯さんは、スマホを机に伏せて置いたかと思えば、すぐに手に取り、ちらりと画面を見ては、また伏せる。その繰り返し。まるで時間を気にしているかのように。


数日前の停電のせいだろうか。

一瞬そう思ったが、さすがにもう日常は戻ってきている。他の講師たちはすっかり普段通りで、冗談を言い合ったり、明日の授業の準備をしたりしている。それなのに、この二人だけはどこかぎこちなかった。

(……なんだろう。やっぱり停電だけのせいじゃない気がする)

そう胸の奥で小さな違和感を抱えつつも、俺は特に気にしていないふりをして、自分のプリントに赤を入れ続けた。


——その時だった。


「失礼します」


低い声が控室の外から響き、数人が顔を上げた。

廊下の奥、事務所の方へ向かって、スーツ姿の二人組が歩いてくるのが見えた。背筋の伸びた中年の男性と、若い刑事らしき男。胸元には小さく警察手帳が覗いている。

一瞬、空気が凍った。

俺の胸がどきりと跳ねる。

刑事二人は控室には目もくれず、まっすぐに事務所へと進んでいった。扉の前で黒木塾長が待ち受けていて、落ち着いた様子で軽く会釈し、彼らを中へ案内する。扉が閉まる音が響いた。


「え……警察?」

「何の用だろう」


講師の誰かが小声で呟き、それをきっかけに小さなざわめきが広がる。


「塾に警察なんて、珍しいな」

「生徒が何かトラブルでも起こしたのかな」


皆が勝手な推測を口にしながらも、どこか声を潜めている。

俺は喉が渇き、唾を飲み込む。胸の奥で鼓動が早鐘のように鳴り響き、息が詰まりそうになった。

(まさか……俺のこと? いや、でも……斎藤さんの件か? それとも——)

頭の中で考えが暴走しそうになる。

机に目を落とすと、手に持ったプリントが汗で湿って波打っていた。赤ペンのインクがかすかに滲み、線がよれよれと歪んでいる。

周囲を見回す。

講師たちはそれぞれの作業を続けているが、集中しきれていない。

机に広げたプリントに書き込む手が止まり、耳は完全に事務所の方へ向いている。

山本さんと佐伯さんも同じだ。ペンを動かしてはいるが、明らかに耳は事務所の扉に向いている。

ただ、それは不自然なほどではなく、皆と同じように「警察」という存在に引き寄せられているだけに見えた。


静寂。

廊下を行き交う足音すら遠のき、控室の空気は張り詰めていた。

(警察が……ついに塾に来た)

思考がそこに固定される。

何を調べているのか、誰のために来たのか、何も分からない。

ただ、その事実だけが圧倒的な重さを持って、胸の奥にのしかかっていた。

プリントをめくる音すら響かない静けさの中で、俺はただ事務所の扉を見つめ続けていた。

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