第16話 「揺れる日常」

 大学の講義室。午後の光が窓から斜めに差し込み、黒板に白い反射を作っている。教授の声は確かに耳に届いているのに、どこか水中から響いてくるように遠く、意味が頭に入ってこなかった。

ノートには「不正アクセス」という単語だけが宙ぶらりんに残り、ペン先はそこから先に進まない。


昨夜のニュースが頭から離れなかった。送電網への不正アクセス。一部地域での短時間停電。キャスターは「大規模停電には至らず」と安心したような調子で伝えていたが、俺の耳には空虚な響きしか残らなかった。


周囲の学生たちは違う。前の男子は「停電でレポート提出間に合わなかったらどうするよ」なんて笑いながら話している。隣の友人も「夜中に真っ暗になって焦ったけど、すぐ復旧したからラッキーだった」と軽く言ってスマホをいじっている。


つられて笑ったふりをしたものの、内心では全く別の方向に意識が飛んでいた。

斎藤の走り書き――『資金 → 奪取、阻止』『電力止まれば街全体に影響』。あの文字と昨日の停電が、どうしても一つの線で結ばれてしまう。


胸の奥が冷たくなった。教授の声も、周囲のざわめきも、すべて遠い世界の音のように聞こえる。


――


 夕方、塾の控室。

講師仲間がいつものようにプリントを抱えて出入りし、自販機のコーヒーの匂いが漂っている。交わされる会話の内容は昨日のニュース一色だった。


「もし授業中に停電したらパニックだよな」

「スマホのライトでしのぐしかないな」

「テストの日じゃなくて良かったわ」


皆が笑い混じりに冗談を言い合う。いつもと変わらない光景のはずだ。俺は適当に相槌を打ちながら、笑顔の裏で胃の奥が重くなっていくのを感じていた。


 ふと視線の端にそわそわしている二人組がいて、気になって見てみたら俺と同じバイト講師の山本さんと佐伯さんだった。

二人はロッカーの前に座り、同僚と雑談しているが、どこか落ち着きがない。山本さんは時計を何度も見て、佐伯さんは指で机をとんとん叩いている。


まあ停電があれば誰だって不安になる。そう自分に言い聞かせ、俺はプリントに目を戻した。


――


 夜。

食卓には湯気を立てる味噌汁と肉じゃがが並び、母が「停電すぐ直ってよかったわね」と笑顔で話しかけた。

「うん」と曖昧に返す。日常の温かい空気に包まれているはずなのに、胸の奥は落ち着かなかった。


食後、自室に戻ると、無意識にスマホを手に取っていた。銀行アプリを開く。

残高――数億円。桁外れの数字が、相変わらずそこに鎮座していた。


もしこの金が教団に渡っていたら、昨日の停電はもっと大きな混乱になっていたのかもしれない。そんな思考が脳裏をよぎる。


街の灯りは平然とともっている。授業も、家庭も、いつも通りに続いている。

けれど俺だけが、その裏にある影を知ってしまった。


布団に横たわっても、斎藤さんの震えるような走り書きと、銀行の数字が交互に浮かび続けた。

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