第5話 思い出の神様(5)



 あのあと受付さんが迅速に会計を済ませてくれて、気まずい空気にしてしまった真藤動物病院を後にした。

 涙がずっと止まらず、ぐずぐず鼻を啜りながら来た道を戻る。

「ちょっと寄り道しようか」

 菊理様が帰り道を逸れて河川敷沿いに歩き始める。

 このままの顔では帰るのは少し気まずい。私としてもクールダウンする時間が欲しかったので菊理様の後を大人しくついていった。

「白山とここで待ってて」

 菊理様は私を河川敷のベンチに座らせると、白山のリードを握らせてどこかへ行ってしまった。

 白山は私の足元におすわりをして、くありと大きなあくびをしながら向こう岸を眺めている。

 向こう岸も桜並木が満開で、夕暮れ時に差し掛かった不思議な空の色を背景に幻想的な景色を生み出していた。

 空が水色から淡い紫色、桜色を経て柔らかな橙色へと変わっていく。不思議なグラデーションはいつまでも眺めていたいと思わされるほど美しい。空には細い三日月が姿を表していた。

 自然はありのままで美しく、人の心をいとも容易く揺さぶる。

 人がもがき苦しんで手に入れようとしているものを、生まれたその瞬間から持っている事が、唯一無二の美しさが、羨ましかった。

「ずるいなぁ……」

 引きかけていた涙がまたあふれそうになったその瞬間、

「なにがずるいの?」

「うわっ!?」

 ベンチの後ろから菊理様に声を掛けられて小さく飛び上がった。出そうになっていた涙は驚いたと同時に引っ込んでしまった。

「ミルクティーとカフェオレだったらどっちが好き?」

「ミルクティー……」

 差し出されたミニペットボトルのミルクティーを受け取ると、手より少し温かい温度だった。日が落ちかけているので、冷たいものよりも温かいものの方がホッとする。

 菊理様はカフェオレの方のミニペットボトルの蓋をひねりながらベンチに座った。

 せっかく買って来てくれたものを飲まないのも失礼かと思い、蓋を開けてミルクティーに口をつける。

 ほんのりと甘い味が口の中にじんわりと広がった。

「……大学の合評で、自分の作品をつまらない、幼稚な作品だって言われたんです。いや、こんなものは作品と呼べないと言われました」

 夕暮れの不思議な空気と、やさしいミルクティーの味に、強張っていた心がほんの少し解ける心地がして、そのままポロリと言葉がこぼれ落ちた。

 情けなくて、恥ずかしくて、心の奥底に仕舞い込んで見ないフリをしていたもの。

 あの日の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。

 大勢の前に立って作品についてプレゼンした後、一人の教授に言われた言葉だった。今思い出しても足が震えそうになる。

「情けないですよね。ものづくりは人に意見をもらって成長していくものなのに」

 ふとした瞬間に、もはや反射のように合評の時に言われた言葉が、場面が、フラッシュバックする。

『俺、この作品嫌いだわ』

『何もかもが中途半端。何が言いたいのか全く伝わってこない』

『コンセプトちゃんと分かってる? 理解できてたらこんなアプローチにはならないんじゃない?』

 菊理様の反応を見るのが怖くて、ずっと向こう岸を眺めたまま話す。

「否定的な意見も、何もかもを飲み込んで、作品に向き合わなければならないのに、それができない。その程度の言葉で絵が描けなくなった自分が、情けなくて、私がずっと抱えてきた絵を描くのが好きという気持ちはこんなものだったのかって絶望したんです」

 本当に好きなら、ちょっとやそっと否定的な事を言われても続けられる。

 でも、それができないのなら、私は違うのかもしれないと思った。

 諦めてしまった方が楽になれるけれど、それと同時に今まで私が絵を描くことを喜んでくれた人にどういう顔をしてどういう説明をすればいいのだろうと思った。

 ずっと夢見ていた道に進んだのに、ちょっとのことで心が折れて前に進めない。

 両親に高い学費を出してもらって大学に通っているのに、きっと両親もがっかりさせてしまう。

 自分に失望したくない以上に、周りの人に失望されたくない気持ちがあった。

 こんなに弱いのに、面倒なプライドだけは残っている。

 その自分の醜さが情けなくて、恥ずかしくて、いっそのこと消えてしまいたかった。

 また涙がこぼれそうになって、両手で顔を覆う。

「やめたくて、やめたくなくて、ずっとグラグラ揺れていて気持ち悪いんです。描きたいという気持ちはあるのに、描けない。それならいっそやめてしまえれば良いのに。絵を描く事をやめてしまったら、私にはなにも残らない。なにものにもなれない自分が怖いんです」

 自分の感情が定まらないことがこんなにも辛いことだなんて思わなかった。

 言葉にすることで、だんだんと自分がなにを怖がっていたのかがハッキリしてくる。

 こんなんだから、絵が描けなくなるんだ、と気付いた。

「なにも残らない訳がないでしょう」

 最悪な気分を切り裂くように、菊理様の明瞭な声が鼓膜を打つ。

 顔を上げて菊理様の顔を見ると、静かな水面の様な瞳でこちらを射抜いていて、呼吸が止まる心地がした。

「今まで作り上げた物はなくならない。あなたの脳に、指先に、心に残っている。それはこれからどんな形にもなっていく可能性がある。その可能性を止めることは誰にもできない。あなた自身にも」

 ああ、この人は、私以上に私の見えない未来を信じてくれている。

 その事実だけで、救われた気持ちになった。

「月のある夜も、灯りがあった方が歩きやすいでしょう? 佐保の絵を描く才能というのは、あなた自身が生きて歩いていく道をもっとよく照らすようなものじゃないかと私は思うよ」

 嗚咽を堪えようとしても、口の端から漏れ出て、ぼろぼろと涙が溢れてこぼれていく。

 膝に顔を埋め、声を上げて涙を流していると、菊理様が優しく背中を撫でてくれる。手の温かさにほっとしていると、次は足元がほわりと暖かくなった。

 足元で寝ていた白山が、私の足を枕にしている。

 触れているのは足元だけなのに、そのあたたかさに心が落ち着くのが分かる。

 寝ぼけているのかどうなのかは分からないが、まるで白山も慰めてくれるように見えて、思わず泣きながら笑ってしまった。




 空が藍色に染まり切って星が見え始めた頃、祖父母の家に帰ってきた。

「真藤先生がさっき血相を変えて謝りに来たんだけど、一体何があったの」

 出迎えてくれた祖母が心配そうな表情を浮かべて開口一番そう言った。

「あー、えっと、真藤先生は悪くなくって……」

 なんと言えば良いのか分からず、もごもごと祖母に説明する。

「まぁ、どっちも悪くないんだけど、タイミングだけが悪かったんだよね。真藤先生には明日私も一緒に改めて話に行くよ」

 この説明で祖母が納得してくれるのかと不安になっていたら、菊理様が助け舟を出してくれた。

「お詫びにってケーキも置いて行ったのよ。このくらいの箱にいーっぱい」

「理由は分からなくとも、娘くらいの年頃の女の子を泣かせたのはよっぽど堪えたんだろうねぇ……」

 明日真藤先生になるべく早く弁明をしなければ、と思った。




 お風呂に入った後、昨日より少しだけ欠けた月を窓から見上げる。

 今日は祖母に長袖のパジャマを借りたので、窓を開けていても寒さは感じない。大事にされながらよく使いこまれていて、とても着心地がよくてホッとする。

「佐保、今大丈夫?」

 開けっぱなしにしていたガラス障子から、菊理様がひょっこりと顔を覗かせる。

「大丈夫ですよ」

「よかった」

 浴衣姿の菊理様が大きな長方形の缶を抱えて部屋に入ってくる。

 菊理様は私の前に正座をしてそっと缶を置いた。少し色褪せているけれど、紅白の大輪の菊のデザインが目を惹く。

 菊理様が両手でそっと缶の蓋を開けた。

 缶の中には質の違う古い紙が何枚も入っていて、そのうちの一枚を菊理様が手に取って広げる。

「ふふ、覚えているかな?」

 広げた紙をこちらに渡してくるので、何か分からないが反射で受け取る。

「あー……なるほど」

 古い紙に描かれていたのは、クレヨンの絵だった。

 ほぼ棒人間に近いものだが、着物の様なものを着た女性と白いふわふわの犬の様なものが描かれている。

 絵には「くくりさま」「はくさん」と拙い字がカラフルな色で書いてあった。そして右下には「さほ」と書いてある。

 記憶にはないが、かつての私が描いた絵だ。

 文字で説明してしまっている辺りに幼さが表れていて、でも、必死に自分が描いたものをなんなのかを伝えようとしていることが伝わってくる。

 今の自分の描く絵の方が何倍も、何百倍もうまい。構図も、パースも、色遣いも、学んだ技術は段違いだ。

 でも、それは技術の上での話だ。

 自分の感じたものを表そうと、誰かに何かを伝えようとする強い気持ちは、かつての私に及ばない。

 それを思い出すことができれば、今感じている恐怖を越えていけるのではないのだろうかと思った。

 欲求の強さは全てを凌駕する。

 体力も、睡眠も、食欲も、全ての欲を満たすに値する。

 それを、私も知っている。

「私は、佐保の絵が大好きよ」

 ずっと昔の記憶と、今の光景が重なって見える。

 あの頃から、変わっていない。

「……でも、それは私があなたに近い人間だからでしょう。作品だけを見て、そう思えるかは分からない」

 気を遣った意見なんて欲しくないけれど、気を遣わない意見をもらってこんなにも参っているのだから、自分勝手もいいところだ。

 人の本当の心根を知るのが怖いと思っているのに、どうしても欲してしまう。まだ、諦めることができない。

 なんと無様で滑稽なことなのだろう。

「今更、あなたを知らない私にはなれない。だから、佐保の言葉を否定することはできない」

 菊理様は、私をひたと見据えて静かに口を開く。

「でも、私にとってあなた自身とあなたの作品が好きって事実は何ひとつ変わらないのよ」

 まるで心臓を掴まれた様な心地がした。

 どんな答えが欲しかったのかは、私自身も分からない。だが、この言葉が真実であって欲しいと思った。

 この人の笑う顔が幼心に美しくて、何度も見たくて、あの頃はずっと絵を描いていたことを思い出す。

 あの日あの瞬間から、そして今も、この人は私にとっての神様だった。

「これって作品だけが好きってことよりもお得だと思わない?」

 突然のお得発言に、一気に庶民感が出てしまい、直前までのギャップで思わず吹き出してしまった。


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