色の正体

 夏休みも終盤。家族旅行の話が出ていたが僕は行かず、変わらず家で勉強していた。

 本当は旅行に行きたかったのだけど、少し咳が出ていたため旅行のはしゃぎ過ぎで、始業式に参加できなくては困る。ということで大人しく家にいることになったものの、特にすることもなかったので独り寂しく家で勉強をしている。

 カリカリとなるシャーペンの音は不規則で非常につまらないものだったが、エアコンの唸るような音に比べたらまだマシだ。

 外はどんな音で溢れているのだろう。蝉の声、鳥の鳴き声、草木が揺れる音、川の流れる音。もっともっと色々な音が溢れているに違いない。家の中で数えるしか聞こえない音に耳を澄ますより、自分から音を探しに行くのもいいかもしれない。

 ダイニングテーブルに無造作に広げられた教科書たちを机の端にまとめ、パジャマからジャージに着替えようと自分の部屋に足を向けたとき、水が落ちるような音がして窓を見る。

 さっきまでの雲ひとつない晴天とうって変わって、この時間帯ではありえないほど夜のように真っ暗に変わり、通り雨のような激しい雨粒が窓や外壁に当たって涙のように落ちていく。

 歩きに行けなくなったことで、いよいよ僕の心はこの空のように曇りはじめ、雨でも降りそうだった。

 やる気のない足で普段は寝転んじゃいけないと言われているソファに倒れるように寝転がる。手を伸ばせば届くリモコンを手にすることはなく、代わりにクッションを手にして胸に抱いて、孤独を埋めるよう何も考えず、聞こえてくる雨音に耳を澄ました。

 ───ピンポーン

 雨の音に混じってそんな音が聞こえた。けれど、今日は宅配があると母から伝言はなかったので、居留守を決め込むことにした。

 ───ピンポーン

 居ないのだから律儀に二回も鳴らさなくていいのに…

 ───ピンポーン

 しつこ過ぎるインターフォンの相手が気になった僕はソファから起きて、インターフォンを見にいった。

 母こだわりの対面キッチンの横にあるその画面には見たことない、着物を着た黒髪長髪の画面越しでも分かるほど大きな人が立っていた。

 女の人か男の人か分からないその人は束ねていない濡れた髪や高価そうな着物を気にも留めず、ただじっと怖いくらいに僕が画面に目をやった瞬間、わざわざ中腰になって優しい紫色の瞳でこちらを見ていた。まるで僕が居留守をしていると気づいているかのようにじっと、なんで開けてくれないのと言うふうに、あの蝶のような深い紫色の瞳を映し出している。

 ───ピンポーン

 四回目のインターフォンの鳴る音。その音を聞いた瞬間、何かに駆り立てられるように急いで玄関に向かった。開けてはならない。開けてはならない。そう理解しつつも、体が勝手に玄関へと向かって走り出していた。

「はい」

 僕の意思とは反対に動き出した体が玄関を開けた。するとそこには申し訳なさそうに口元に笑みを浮かべ、こちらをチラチラ見るいい匂いのする人が立っていた。

「急な来客で申し訳ありません。あの、お礼をしたくて…」

 180はあるだろう目の前の人はその身長からは考えられないほど、か細く可愛らしい声を発した。

「お礼…?」

 父か母、もしかして弟に対してのお礼だろうか。だとしたら、今は不在だと伝えなければいけない。けれど今いないのならいつ帰ってくるという返事が返ってくるに違いない。そうするとしばらく僕がこの家で独りでいることを、この知らない綺麗な女の人に知られてしまう。

 そうなるのはなんだか少し怖い。広い家の中で何日も独りで過ごすだけでも怖いのに、その事実を他人に知られることが。

 ぐるぐると回転する頭の中。女の人の姿をいま一度確認する。

 長い黒髪をひとつに束ねることをせず、だらりと重力のままに垂れ下がった髪に高価そうな着物。それらがこの雨で濡れているにも関わらず、拭ったり雫を払うような素振りの一つも見せない。けれどその儚い雰囲気や艶やかな唇、肉感のありそうなボディの前ではそういう雰囲気としてとらえられる。

 大きな体に対して態度や挙動が小動物のようでこちらが悪いことをしているかのような気分になる。けれどその美貌と雨にも負けないいい匂いで全てがどうでもよくなる。そんな不思議な大きい女の人。

「はい。あのぉ…助けていただいた………」

「助ける?」

 誰からもそんな話を聞いていない。いやしなかったのかもしれない。自分が他人に対して手を差し伸べたのなら、それは当たり前のことであり誰かに褒めてもらうものではないと考えているから。

「そのぉ…信じてもらえないかもしれませんが私………」

 その深い紫色の大きな瞳がまるで、誘惑を放つ宝石のようで目が離せなかった。瞳の中の何かが僕が知らない僕を見ているような、そんな不思議な感覚に囚われる。

 途端に全身が炎のように熱くなり呼吸が荒くなる。口腔内に溜まった唾の処理の方法すら忘れるほどの高揚感で意識的に唾液を喉の奥底にしまい込む。それと同時に吹き出した汗の一つが首筋に伝ったのを感じた。

「あの時の蝶なんです…」

 湿り気のある潤った唇から発せられたお伽話のようなその言葉。

 あの日、蝶を助けたことは誰にも話していないし誰にも見られていない。ということは信憑性が高い、むしろ事実であろう。

 確かにあの日、僕は一匹の美しい蝶を再び大空へと羽ばたけるように手助けをした。けれどそれだけだ。お礼されるようなことはしていない、はず………

 なぜだか僕はいま非常に誰にも言えないほどの興奮を覚えている。この鶴の恩返しのような展開に対してなのか、あの綺麗な蝶が本当はこんなにも綺麗だったということなのか判断はできないが、生きてきた中で一番の興奮を覚えているのは確かだ。

「そ、そんなつもりじゃ………」

 お礼を言われるようなことをしていないとあくまで建前の言葉を並べる。この言葉や思考をしている今の僕は人間の汚さを凝縮した塊のように思えた。

「そんなつもりじゃなかったんですか?」

 そう言った彼女の顔は悲しげと言うより随分と怒りに満ちているような、そんな気がした。

「ボクの餌を奪っておきながら言う言葉じゃないよねぇぇぇ!」

 彼女だと思っていた人は耳がおかしくなるくらいの大きな声で叫び、その声があたり一面に響くようにこだました。

 着物が破れ、上半身が露わになった彼女はその美しさの面影を思い出すことができないほどに、顔に蜘蛛を連想させるたくさんの目玉が浮き出て、背中からは6本の足のようなものが生え、着物の上からでもわかるほど柔らかな肉感のありそうな魅惑の体はガリガリの骨男のような見窄らしいものへと変貌を遂げた。

「キミには今からボクと同じ目にあってもらうよ」

 そう言うと男は目に目にも止まらぬ速さで両手から出した糸を僕に巻きつけた。

「キミの行いが本当に正しかったのか、正しくなかったのか…無駄に大きい脳みそで考えな」

 人間ではない異形な男の顔が段々と眼前に迫ってくる。宙ぶらりんになってしまっている足を、きつく縛られた腕や胴を必死に動かしてもピクリとも動かない。むしろ動けば動くほど真っ白な糸は息の根を止めようとするかのように、体をきつく縛っていく。

 男は牙の生えた大きな口を開けると中から丸い、この世の負の感情の全てを集めたような、この世にある色に当てはまらない見た瞬間、恐ろしいと感じる色の玉を、俯いている僕の頭をその大きな手で掴んで、開いたまま一向に閉じない僕の口の中に入れた。

 温もりの一つも感じない男の舌と口腔内。得体の知れない玉と共に流れ込んできた唾液のような液は飴玉のように甘く、頭がふわふわと眠気に襲われたみたいになる。男は獣のように鋭い牙を持っているくせに僕の舌を噛みちぎることなく、玉を甘い液と共に喉の奥底へと押していった。

「ゴホッ、ゴホッ」

「キミのしたことは本当にいいことだったの?」

 僕の頭から突き放すように手を離し、そう問う彼の表情はたくさんの目が生えているにも関わらず恐ろしいなどといったものではなく、ひどく苦しそうに見えた。

 何も答えることができなかった。今のこの状況さえも上手く飲み込めていないにも関わらず、問いに対しての思考を働かせることなんて到底できるはずもなく、雨の音だけが鳴り響いている。

 男はため息や悪態をつくわけでもなく、ただただ可哀想なものを見るような憐れみのような眼差しを白い糸でぐるぐる巻きになった僕に向けていた。

 視界がモヤのかかった山中のように霞んでよく見えなくなってきたとき、ようやく僕は思い出した。この目の前の男はあの時の蜘蛛なのだと。

 あのとき、僕が餌である蝶を自然の摂理に逆らって手助けてしまったから、あの蜘蛛は餌がなくなり死んでしまったのだということを。

 いいことだと思った行いが、誰かにとってはいい行いではなく、迷惑極まりない思いやりの押し付けだったのだと悟った。

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