オンガエシ
宵月乃 雪白
美しい蝶
気ままな学生生活の小さな隙間。勉強の休憩として日課になりつつある散歩で外に出ている。
散歩コースは決まって田んぼの周り。小学生のときにマラソンコースとして使用されていた場所を5、6周するのがルーティーンとなっており、5、6周しないと待っている勉強が進まなくなってしまうくらい、僕の身体に散歩をするということが刻まれている。
ジリジリと太陽の光を遮る障害物は田んぼの真ん中なのであるはずもなく、その光を一身に受けながらゆっくりとした歩みで確実に歩を進めていく。真夏の真昼間ということもあり、車以外通る人は滅多にない。通るとしても自転車に乗った、友達の家に遊びに行くであろう笑顔に溢れた小学生くらいの子供だけで炎天下の中、僕のように散歩するバカな人間は他にはいない。
人とすれ違うのが苦手な僕にとって真夏の散歩というのは命の危険にさらされながらも、非常に気楽で肩を抜けるものであるため、熱中症や日焼けの心配もあるがそれ以上に楽しいものだ。
残り一周。汗だくになりながら、さっき学んだことがすっきりと整頓された脳みそには次の学習内容を詰めるだけの余白も出来た。
アスファルトの表面がゆらゆらと揺らめいている。その様子は炎の揺らめきに酷似しているが心が落ち着くものではなく、むしろ己の中の何かを掻き立てるような、未知のものが存在しているような気がする。
連日の猛暑のせいか、近くにある小さな森の中には五種類以上はいるであろう鳥たちの住処であるにも関わらず、その鳴き声の一つも聞こえない。代わりに蝉の命の灯火のような叫び声が辺りに響いて止まない。
ふと風が吹き、ぬるい温風が全身を舐めるように過ぎて行く。涼しいような涼しくないようなピリッとした風が頬に当たってどこか流れていった。風のやってきた方向、山側に視線をやるとそこには背丈のある草の中にひっそりと作られた小さくも立派な蜘蛛の巣があった。
まるで隠されるように作られた、透明のようで白い糸で作られたベッドには横たわるようにして今にも食べられてしまいそうな見たことのない紫色をした蝶が必死に羽をばたつかせ、起きあがろうとしていた。
どうして羽ばたけないのというように、体の一部が欠損、または傷ついてしまいそうなほどに全身を使ってここから抜け出そうとしている。
いつまでその美しい蝶を見ていたのだろう。吹き出した汗が蜘蛛の巣に落ちたのか、綺麗に張り巡らされた白い糸の一部だけがキラキラと輝いていた。
しばらくすると蝶は己の運命を悟ったようにピタリとばたつかせていた体の動きを止め静かに息をしだした。するとその時、蝶が動きを止め諦めるのを待っていたというように、親指くらいの大きさをした一匹の蜘蛛が蝶に向かって動き出したのを見つけた。
死への恐怖を味合わせるようにゆっくりと蝶へと近づいていくその小さな姿はまるで勝者そのもの。負けなんて言葉はこの世に存在しないというような、ただならぬ雰囲気をその小さな身でありながらも放っていた。
この蜘蛛に比べ、何倍も何十倍も何千倍も大きな体をしているにも関わらず、目の前の手のひらで潰してしまいそうな小さな蜘蛛が恐ろしくて仕方がなかった。
走ってもいないのに、どくどくと強く脈が動き出す。体が暑さ以外の何かで熱を帯びていく奇妙な感じが手から全身に広がって堪らない。
この綺麗な蝶はきっとこのままこの蜘蛛の餌になってしまうのだろう。
息を呑み、物語の中でしか見たことのない紫色の蝶に手を伸ばす。今、この行動はきっと自然の摂理に反するだろう。弱者が強者に喰われていく様は自然界にとっても人間界にとっても当たり前で、それを誰かが止めてしまうのは間違っている。そう分かっているはずなのに、湿り切った右手の人差し指と親指はその蝶の羽を優しく掴んでいた。
これは人間のエゴだ。一瞬でも心奪われたものが目の前で散っていく様子を見たくないというエゴ。手を差し伸べたら助かる命が自分のせいで死んだということにはしたくない、自分を守るための醜い感情。
さっきまで動いていた蜘蛛がゆっくりとその動きを止めた。
目の前の獲物が理不尽に奪われたことに対する絶望か、ただ単に疲れたのかは分からない。けれど今の蜘蛛には強者ではなく弱者のようで哀れみを感じたということは確かだ。
蜘蛛のいる場所から少し離れ、普段は行かない鳥たちの住処である小さな森の手前に来た。右手の指に掴んだ蝶を左手の甲に乗せ、天に向かってその手を伸ばす。蝶は運命から逃れられたことに気づいていないのか少しの間、手の甲でウロウロと彷徨っていた。
一際大きい蝉の声が辺りに鳴り響く。その瞬間、それを合図とし蝶は大きくその美しい紫色の羽を目一杯広げ、真っ青な大空に飛び立っていった。
この暑さなどものともせず、美しく輝くその羽の色は誰かを誘惑するには十分すぎるほどの深い紫をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます