#8 エグレアの指輪 幸福の果て

 ラナスがルーカスに視線を向けていた、ほんの一時。

 そのわずかな間に、アンナはすでに呪文を唱えていた。



 あえて剣を抜かず話しかけ続け、場の緊張を保たせたままなのも、ルーカスの演技であろう。アンナたちに近寄らなかったのはラナスの指輪を解除させるため。そう、この状況下で魔道具にもラナスにも対応できるのは実質アンナだけだった。



 視線がルーカスに注がれた瞬間に、アンナは機会を逃さなかった。小さく詠唱を続ける。ラナスは気づいていない。


 アンナは集中して小さく詠唱をする。焦るな、焦って初めから詠唱となれば、全てが水の泡となる。助けとなったのは、指輪解除という最小コストの解除呪文だった。いつもの大掛かりの呪い解除や鑑定とは訳が違う。これが多大なる呪いの解除だったら、唱えた瞬間、解除魔法に気づかれたラナスに即座に殺されていただろう。



 発動した魔法、アンナの掌から光が走った。輝く光はまるで黒い痣を食い破るように、ラナスの右腕へ向かって渦を巻いていく。指輪を中心に、空気が練り上げられていく。金属の匂いと血の匂いが混ざる。アンナは魔法を唱えた直後に、逃げるよう後ろに大きく退がった。


 同時に、ラナスは右腕を掴みもだえ苦しんだ。持っていた短剣をアンナに向けようとするが、自分の意思ではどうにもならないようだった。最初は苦悶の顔だと思われたが、表情に混じるものはもっと醜く現れる。獣のような執着心と怒りが含まれていた。


 そのまま呻きラナスは倒れ込んだ。はずみで机やカウンターの上の物が落ちていく。叫ぶたびに、ラナスと重なる痣の女の笑い声。彼の右腕を痣が喰いながら引き剥がれるように見えた。浮かびあがった女の顔と共に右腕だけが黒い霧のように霧散し、消えていく。ようやく指輪がコロンと音をたて床に零れ落ちた。


「畜生! 俺の……腕が!」


 残されたのは、ただ袖口から垂れ下がる布だった。ラナスの右腕は、完全に消えていた。血の混じった唾を一度吐き、指先のない袖の先を見下ろす。


「この……くそ婆ァが……! ぶっ殺してやる!」


 言葉ごと怒りたぎっていた。傲慢ごうまんな男の視線を浴び、アンナが震えて動けずにいるとルーカスが割って入った。落ちた短剣を足で弾き飛ばし、長剣の切っ先をラナスの首につきつけた。


「できるものならばな。店主、怪我は」


「……大丈夫です。この方の、指輪の呪いを解除しました。もう死ぬことはありませんが……右腕は、もう……」


 復活することはないだろう、と暗に告げる。

 アンナは胸の奥で、小さく祈るだけだった。

 魔道具に取りつかれたなら、生き延びるだけ幸福なのだ。それもこれほどの悪意ある魔道具では……。


「この野郎! 俺の腕を返せ!」


「なくなったのが腕一本で感謝すべきだろう? あのままでは、腕どころか命が危かっただろうな。命がなくなったところで、俺は特に困らんが」


 ルーカスはあっさりと跳ねのけた。


「では現行犯として逮捕する。店主、異論は」


 アンナはふるふると首を振った。軽く首でわかったと合図をすると、ルーカスはラナスへと視線を落とした。


「離せ! あの婆ァの首を掻っ切ってやる!」


「口をつぐめ、罪が重くなるだけだぞ。貴様はこれから治安院に連れていく。魔法牢に投獄することになるだろう。戯言だろうが妄言だろうがあとでいくらでも聞いてやる」


 魔法牢、と聞いてアンナはピンときた。との言葉、戦闘慣れ、簡単な防御魔法を使える点、知識を鑑みて――ルーカスはそういった職業なのだと察した。


「待ってください、ルーカスさん」


「まさか忘却の砂牢でもここでコイツに使うつもりか?」


「違います。この落ちた指輪を、鑑定させていただけませんか。あまりにも妙です。それに、砂牢は禁呪ですから使えません」


「……そうだな。そうだと思った」


 ルーカスは一瞬残念そうにした後、頷いた。そのまま、ラナスを手際よく捕縛する。アンナは床の指輪に向かって、詠唱をはじめる。光る文字の一つが吸収され、アンナは目を見開いた。


「それで、今度は何の魔道具だ」


「これは……エグレアの指輪です。できれば……そのまま封印しますので私にお譲りください。これはあまりにも危険なので……」


「エグレアの指輪?」


「……別名は『他者犠牲の指輪』です。自分さえよければ良いという破滅の指輪。それに……」


 続きを、とルーカスはアンナに視線を流した。


「魔道具の記憶が見えます。これは……ラナスさんはもともと盗みを働いていた方。どこかの屋敷の宝石箱から盗んで……いたのですね。やはり姉の件は作り話……。財布の持ち主を殺したのは指輪の呪い――エグレアです。馬車を襲ったのも……持ち主に幸福を得させるためのエグレアの呪い。つまり、知っていたのです」


「――」


 何かをいいかけ、ルーカスは再び黙り込みアンナのいうことに耳を傾けた。


「すみません、記憶を読みながらなので情報がまとまらず……。ラナスさんはご自身が指輪を着けることで人が死ぬことを知っていたのです。指輪の力を甘く見て、結局そのまま取り憑かれてしまった……他にもたくさんの……犠牲者を引き起こしてしまった……」


『幸福は独占できる』――指輪の内部に刻まれた言葉が、やたらに冷たく感じる。

『幸福は配るほど増える』という祖母の口癖と、まるで正反対の呪いの言葉だ。


「他者犠牲か。とにかく……こいつは呪いがあることを利用して利益を得ていた、そして知っていてわざと犯罪を見逃していたという認識で間違いないか?」


「そうです。そして主にとって都合のいいことがある度に痣は大きくなっていく。ある程度の金銭を得たからと呪いを解除するものを探したが、なかなか見つからない――。指輪とはいえ、エグレアの呪いは強力すぎました」


「なるほど」


「死を招いても尚自分だけは助かろうとしたのです。そうです、他者犠牲の指輪だからこそ、と。最終的に切り捨てようとした……」


「なるほど。しかし、今回はもともと盗みを働いていた上に、意思があるんだろう? ならば、やったことが許されるわけではない。今の話が本当かどうかは、取り調べで明るみになるだろう」


 ルーカスはアンナの指輪に視線を投げた。


――青色に変わっていることに、気づいている……。


 アンナは指輪をそっともう片方の手で隠し、うなずいた。


「ええ……」


 直後、ルーカスが手配済みの治安院たちに、ラナスは引き取られていった。

 背中はうなだれていて、茫然自失として消え失せた腕を見ていた。先ほどの高慢な様子が嘘のように感じる。一時の幸福の独占を得た末路を垣間見る。


「ありがとうございました。ルーカスさんがいらっしゃらなければ、本当に危うかったと思います」


 アンナは頭を下げた。防御魔法だけでは厳しかった。それどころか、あっさりと魔法剣に破られる……助かる可能性はどれだけあったか。それに店内で暴れられれば、魔道具たちがまた破壊されてしまうだろう――無用な戦闘は互いに避けた方が吉。


「ところでどうして……いえ、ルーカスさんは治安院の方なのですか」


「ああ、そうだ。別の街で魔道具の主人が殺される事件があったからな。他にもいくつか……余罪があるだろう。魔道具と関連する事件で続々となれば、よもやこの店にも犯人がいずれくるのではと思っていたが、予想通りだった」


「ありがとうございます」


 魔道具や犯罪に関連する者たちを逮捕する治安院――。予想通りだ。


「……それと興味深い魔道具が手に入ったから、見てもらおうかと。営業時間外だろうか」


 とはいえ、狙いはそちらもだったか、とアンナはほんのり笑う。


「少しなら大丈夫です」


 カラン、と鳴り扉が閉まると、よろず屋周辺には再び静寂が戻った。


 アンナはそっと羅針盤に目をやる。針は静かに夜を指し、青白い光の縁が安定している――今日も店は守られた。命もある。魔力を遮断する防魔布に包んだ指輪は、静かに封印され、もう二度と日の目を見ないだろう。


★エグレアの指輪(Egreya's Ring)

別名:他者犠牲の指輪


・概要 帝国錬金術師エグレアが、「他人が不幸であっても自分さえ満たされていれば幸福でいられる」という思想で、『幸福の独占』というまじないをかけた。エグレアだけが幸福となり、不幸になった群衆の怒りを買い、後に引き裂かれ殺されたという


・外観 精巧な銀細工の台座にはまった蛋白石オパールがはめられた指輪。時間経過とともにエグレアの呪いである体中の痣が広がり、周りに不幸が連鎖する。広がる不幸の度合いはエグレアの気分次第。


・代償・危険性

持ち主は徐々に他人の不幸に無感覚になり、己の幸せだけを強く求めるようになる。長期間所持すると、「自分が幸せである限り他者の不幸は当然」という倫理観の歪みを生じ、幸福の飢餓者となる。


・効果・特性 所持者の皮膚に女の顔の痣として出現。利得が発生するたび笑みが濃くなり、やがて代償の徴収として身体部位の喪失に至る。ある程度、人間の欲ごと人を食べきった場合、指輪単独へと戻り次の獲物を待つ。


・他逸話 

エグレアの言葉:「幸福は奪うもの、私だけのもの。他者に分け与えるなど、愚かしいことだわ」

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