第八章 夜の海辺

ガマを抜け出すと、湿った空気が一変した。

頬をなでる夜風はひんやりとして、胸の奥にこもっていた重さを一瞬だけ和らげてくれる。

頭上には雲ひとつない夜空。

無数の星が瞬き、波間に揺れる光と溶け合っていた。

海は黒い布のように広がり、その縁だけが銀色に縁取られている。

砲声も銃声もここまでは届かない。

ただ寄せては返す波の音が、静かに耳に沁みこんでくる。

千鶴は和雄を抱き寄せたまま、足を止めた。

「……海だ」

ぽつりとこぼれた声は、驚きでも喜びでもなく、ただ現実を確かめるような響きを帯びていた。

和雄は星を見上げ、目を瞬かせる。

その瞳には怯えの影がまだ色濃く残っていたが、波の音に合わせるように胸の上下が少し落ち着いていく。

亮太は潮の匂いを吸い込みながら、深く息を吐いた。

背後にはまだ「皆で」という囁きが残っている気がした。

けれど、ここだけは別世界のように静かだった。

波の音に包まれながらも、千鶴の肩は小さく震えていた。

和雄を抱きしめる腕に力を込め、唇を噛みしめ、やがて押し殺した声が漏れる。

「……もう、楽になりたい」

その言葉は波よりも静かに落ち、亮太の胸を鋭く貫いた。

和雄は不安そうに姉を見上げ、小さな手で袖をぎゅっと握る。

亮太はその視線を受け止め、星空を仰いだ。

喉が熱く震え、思わず声がこぼれる。

「星よ……どうか笑って……」

それだけで声は途切れた。

続きは言えない。

けれど、その短い旋律は夜風に溶け、姉弟の胸に小さな灯を残した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る