後編
ハルカさんのアトリエに通い始めて数ヶ月が経った。
僕は、感情の色彩と、以前よりも穏やかに向き合えるようになっていた。見たくない色を無理に見る必要はないし、共鳴しそうになったら、そっと距離を置くことができるようになった。僕の世界は、以前のような混沌とした色彩の波ではなく、美しく、穏やかなグラデーションに変わっていった。
「ずいぶん落ち着いた顔をするようになったね。ようやく、自分の力と仲良くなれたようだ」
ハルカさんは、僕がデッサンをしている隣で、静かに言った。
「はい。なんだか、すべてが僕の一部になったような気がします」
僕はスケッチブックから顔を上げ、ハルカさんの穏やかな顔を見た。彼のオーラは、いつも通り、温かい太陽のような色をしている。
「それは素晴らしいことだ。その調子で、自分の心を育てていくといい」
穏やかな日々が続くと、僕は「この力は何のためにあるんだろう?」と考えることが少なくなっていた。けれど、その疑問は、ある日突然、僕の目の前に突きつけられた。
街で大きな事故が起きた。
工事現場のクレーンが倒れ、道路が封鎖され、多くの人々が立ち往生していた。
僕もその中にいた。
「…なんてことだ。この色の混沌は…」
苛立ちの赤、不安の灰色、絶望の黒。負の感情の色彩が、まるで墨汁のように空気を重くしていた。僕はその光景をただ見ていることしかできなかった。心が押し潰されそうになる。
「僕は、この力で何ができるんだろう?何もできないじゃないか」
僕は、自分の無力さに打ちひしがれていた。その時だった。
「…待てよ。あの光はなんだ?」
僕の目に、一つの強い光が飛び込んできた。それは、鮮やかなオレンジ色だった。救助活動を行う消防士の一人から放たれている。彼の周りには、信頼と勇気の光が満ち溢れている。
「あの光が、周りの負の感情を少しずつ押し返しているように見える…!」
僕は、そこでハッとした。
「…そうか。わかったぞ!色の持つ力は、ただ見えるだけじゃないんだ。お互いに影響を与え合っているんだ。強い光は、弱い光を打ち消し、より強く輝く。それはまるで、希望の光が、絶望の闇を打ち破るように…!」
その時、僕の目に、もう一つの光景が飛び込んできた。
不安と悲しみの青と灰色を纏った一人の女性が、瓦礫の山に座り込み、泣いていた。彼女の悲しみの色は、周りの黒い感情に飲み込まれそうになっていた。
「…何とかしないと。彼女を、あの混沌から引き離さないと。僕にできることは…いや、僕にしかできないことがあるはずだ」
僕は、無意識のうちに、スケッチブックを開いていた。
「そうだ。描こう。僕の持っている色で。希望の象徴である鮮やかな緑色を…勇気と信頼のオレンジを…そして、温かい太陽のような黄色を…」
僕の手に力がこもる。
ペンを走らせるたびに、僕の心は、熱い感情に満たされていく。
「これは、僕が描きたい色だ。負の感情を消すんじゃない。美しい色を、そこに足してあげるんだ。この絵を通して、彼女に届いてほしい。僕のこの想いが…!」
描き終えたスケッチブックを、僕は強く握りしめた。
すると、僕のスケッチブックから、淡い光が放たれた。その光は、ゆっくりと、しかし確実に、泣いている女性の元へと向かっていった。光に触れた女性は、顔を上げ、少しだけ微笑んだように見えた。
「…僕の力は、ただ『見える』だけじゃなかったんだ。僕の絵を通して、誰かの心に影響を与えた…!ハルカさんが言っていた『可能性』は、これだったんだ…!」
僕は震える声で呟いた。
帰宅後、僕はすぐにハルカさんに電話をかけた。
「ハルカさん、僕、今日、すごい体験をしたんです!」
僕は興奮気味に、一部始終を話した。
「ああ、そうかい。それは素晴らしい経験だったね。君の声がとても弾んでいる」
ハルカさんは電話の向こうで、静かに、そして温かく微笑んでいるようだった。
「僕、すごく嬉しかったんです。僕の描いた色が、彼女の心を少しでも明るくできたとしたら…」
「君は、君の『力』を見つけたんだ。それは、世界に色彩を足す力だ。負の色を消すのではなく、美しい色を添えることで、世界をより鮮やかにする。それが、君の役目だよ」
ハルカさんの言葉に、僕は涙が溢れた。
「…僕の役目…」
「そうだ。さあ、君が描きたいものを描きなさい。君の心から溢れる色彩を、思う存分キャンバスにぶつけなさい」
「はい…!はい、ハルカさん…!」
僕は、この力を受け入れることを決意した。
そして、この「力」を、誰かの心を温かく照らすために使おうと。僕は、再びスケッチブックを開く。
今度は、目の前の風景を写すのではなく、僕が描きたい、未来の色彩を描き始める。
雨上がりの交差点で始まった、僕の物語は、まだ始まったばかりだ。
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