深夜カフェの夢配達人

第1話 夜の帳に集う夢の欠片

日付が変わる頃にようやく筆が進み始める生活を始めてから、僕は深夜のカフェ「ムーンライト」の常連になった。


古いジャズが静かに流れ、カウンターの奥には寡黙な店主がいるだけの、街の喧騒から切り離されたような場所だ。


他の客も、僕と同じように何かを求めて、あるいは何かから逃れてきたような顔をしていた。彼らは皆、この特別な時間と空間に身を委ね、それぞれの物語を内側に秘めているように見えた。




ある夜、僕は原稿の推敲に行き詰まり、ため息をついてふと顔を上げた。


店主のマスターが、カウンター越しに奇妙な作業をしているのが目に入った。 小さな瓶に、光の粒のようなものをそっと移し替えている。その光は、まるで夜空の星屑を瓶に閉じ込めたかのように、かすかに瞬いていた。


「マスター、それは…?」


僕の問いに、マスターは少し驚いたように顔を上げた。


「ああ、これは。ただのスパイスですよ」


彼はそう言って、手元の作業を止めた。


その光の粒は、たしかにふわりと煙のように消えてしまった。 僕は半信半疑だったが、それ以上追及する気にはなれなかった。この店の空気は、不思議なことに、理屈を超えたものを自然と受け入れさせてくれるのだ。



それからも、マスターの奇妙な行動は続く。


ある日、疲れた顔のサラリーマンがカウンターに座り、「明日、大切なプレゼンがあって…でも、全然自信がないんです」とつぶやくと、マスターは「では、少し眠りの香りを」と言って、グラスに何かをそっと混ぜた。


「これは、よく眠れて、すっきりとした朝を迎えられる香りです」


男はそれを飲むと、すぐにうたた寝を始めた。彼の顔から少しずつ緊張が抜け落ち、穏やかな表情に変わっていくのがわかった。数分後には驚くほどすっきりした顔で店を出て行った。



また別の日には、若い女性が「小説のアイデアが浮かばなくて、もうどうしたらいいかわからないんです」と悩みを打ち明ける。


マスターは「アイデアの種を少しだけ」と言って、彼女のコーヒーにそっとスプーンをかざした。


「物語の種は、誰かの『旅』の記憶と繋がっています。それを少しだけ拝借しました」


次の瞬間、女性の表情が輝き、彼女は一心不乱にスマホにメモを打ち込み始めた。その指先からは、堰を切ったように言葉が溢れ出しているのが見て取れた。



そんな光景を何度も目にし、僕はマスターのことが気になって仕方がなかった。


彼の行動は、もはや単なるサービスとは言えない。まるで、人々の心の奥底に触れ、何かを与えているかのようだった。 そしてついに、僕は勇気を出して尋ねた。


「マスター、正直に言ってください。この店は、一体何なんですか? そして、あなたがやっていることは…」


マスターは困ったように微笑んだ後、カウンターの奥から古びたノートを取り出した。 ノートの表紙には「夢の終着点」とだけ書かれていた。


「ここは、夢の終着点であり、出発点です。そして私は、みんなの夢を配達する“夢の配達人”なんです」


ノートには、僕が以前店で見た客たちの名前が記され、その横にそれぞれの夢が詳細に書き込まれていた。


「さっきの女性は、書けないことに悩んでいました。だから、誰かの『世界を旅する夢』の欠片を少しだけ渡したんです。そうすれば、新しい世界観が生まれるでしょう?」


僕は彼の言葉に耳を疑った。


しかし、これまでの奇妙な出来事がすべて繋がったような気がした。


このカフェは、ただの飲食店ではなく、人々の夢の欠片が集まる場所だったのだ。 そして何よりも、僕自身の心の中にある、忘れかけていた夢の存在に、僕は気づかされたのだった。

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