後編

さらに時間が経った。


アオイは異世界での生活を満喫しているように見えたが、違和感は日に日に大きくなっていった。


泉の水は、やはりどこまでも澄み切っていたが、その水面に映る自分の顔が、まるで人形のように感情に乏しく見えた。

どんなに美しい花を見ても、どんなに心地よい風を感じても、心の奥底で感じる物足りなさが募っていく。



この世界には、喜びも、悲しみも、怒りも、驚きもない。

ただ、穏やかな「無」が広がっているだけだと、アオイは漠然と感じ始めた。


それは、アオイが望んだ「刺激のない平和」だったはずなのに、いつしか「刺激がない」ことが、アオイの心を蝕み始めていた。


ふと、アオイは考えた。


「でも、現実社会は嫌なことばかりだっただろうか…?」


確かに嫌なこともあったけれど、笑い合ったことや、嬉しかったこともたくさんあったはずだ。


ユイと、たわいもないことで笑い転げた日。

家族との温かい食卓で交わした言葉、友達とのおしゃべりで時間を忘れた放課後、難しい問題が解けた時の喜び、部活動でみんなと一つの目標に向かって頑張った時の連帯感。


それらは、決して「刺激がない」わけではなかった。


むしろ、感情が大きく揺さぶられる、かけがえのない瞬間だった。


この世界には、そうした「現実の温かみ」が、どこか欠けている。

それは、まるで、美味しくないけれど栄養だけはある食事を延々と食べさせられているような感覚だった。


アオイは、この世界の穏やかさが、次第に寂しさに変わっていくのを感じていた。




三度、黒猫がアオイに問いかける。


それは、アオイが真珠の輝く木の根元に座り、三つの月をぼんやりと眺めている時だった。


「アオイ、君はまだここにいたいかい?」


アオイは猫の琥珀色の瞳をじっと見つめた。


もう迷いはなかった。

異世界の美しさは色褪せてはいないけれど、もうここが心地よい場所だとは思えなかった。

心の違和感は、確かな「帰りたさ」に変わっていた。


「ううん、違う。ここは素敵だけど、私が本当にいるべき場所じゃない。私の家族も友達も、学校も、全部あっちにあるから。


 あっちには、確かに嫌なこともあるけれど、それと同じくらい、いや、それ以上に嬉しいことや楽しいこともたくさんあった。

 

 ユイとも、ちゃんと仲直りしたい。数学の先生は怖いけど、ちゃんと教えてくれるし、友達とは、ぶつかることもあるけど、その分、仲良くなれることもある。

 

 勉強も、大変だけど、新しいことを知るのは面白い。私、あっちで、ちゃんと頑張りたい」


アオイの言葉を聞いて、黒猫は満足そうに小さく「にゃあ」と鳴いた。

その声には、どこか安心したような、そして暖かさの混じった響きがあった。


黒猫の体が、再び淡い光の渦に包まれていく。


「そうだね。じゃあ、そろそろお別れの時間だ」


アオイもまた、その光に優しく包み込まれていく。

暖かく、懐かしい、そして少しだけ苦いような感覚。





次に目を開けた時、目の前には見慣れた公園の景色が広がっていた。

薄紫色の夕焼けはまだ空に残っていて、ブランコが風に揺れている。

まるで何もなかったかのように、日常がそこにあった。



黒猫の姿はどこにもない。


しかし、アオイの心には、異世界での体験と、自分の居場所を再確認した確かな想いが残っていた。


足元には、異世界で拾った七色の小石が一つ、キラリと光っていた。


それは、夢ではなかったことの証。



アオイは、ふと時計を見た。

まだ、数分しか経っていない。


公園のベンチに座っていたはずの体は、先ほどと同じように、ほんの少し冷たくなっていた。



黄昏時の夢。


そうか、全部、この黄昏時がくれた、ほんの短い間の「夢」だったのだ。


でも、その夢は、アオイに大切なことを教えてくれた。



「アオイ!」


突然、背後から聞き慣れた声がして、アオイは振り返った。

そこに立っていたのは、数日前から気まずくて顔も見たくなかった親友のユイだった。

ユイは少し困ったような顔をして、アオイを見つめている。


「あのさ…この間は、ごめん。私も、ちょっと言いすぎた」


ユイの言葉に、アオイの胸の奥がじんわりと温かくなった。


あの異世界で感じた「寂しさ」は、きっと、ユイと仲直りしたいという気持ちの表れだったのだ。


「ううん、私もごめんね。私がもっと、ちゃんと話せばよかった」


アオイとユイは、お互いの顔を見て、小さく笑い合った。



夕焼け空の下、二人の間に漂っていた気まずい空気は、さっきまでの夢のように消え去っていた。


一回り成長したアオイの新たな日常が、ここからまた始まる。

喧嘩をしても、仲直りできる友達がいること。


それが、どれほど温かく、かけがえのないものかを知ったアオイは、これからの日々を、きっともっと大切にできるだろう。

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