夕暮れの魔法と、私の選択~完璧な異世界と、本当の居場所~

前編

薄紫色の夕焼けが空を染める頃、公園の片隅で、アオイは一匹の黒猫と出会った。


夕暮れの光を吸い込むような真っ黒な毛並みに、まるで上質な琥珀を溶かし込んだような瞳が印象的な猫だった。

人懐っこく、警戒心なくアオイの足元にすり寄ってくるその猫に、アオイは吸い寄せられるように手を伸ばした。


柔らかく、温かい毛並みに触れた瞬間、アオイの脳裏にチカチカと奇妙な光が瞬く。

それは、まるで万華鏡を覗き込んだかのような、複雑でいて鮮やかな光の渦だった。


視界が急速にねじれ、公園の景色が音もなく溶けていく。




次に目を開けた時、アオイの目の前には信じられない光景が広がっていた。


見慣れた公園の遊具は影も形もなく、代わりに目に飛び込んできたのは、見たこともないほど巨大な植物が天に向かって伸び、色とりどりのキノコが怪しく、しかし優しく輝く、奇妙で幻想的な森だった。


空には三つの月が、それぞれ異なる色合いで、ぼんやりと光を放っている。


耳慣れない鳥のさえずりは、まるで澄んだ鈴の音のようで、心地よく響き渡った。


呆然とするアオイの足元には、先ほどの黒猫が、まるで全てを知っているかのようにすまし顔で座っていた。


「まさか、あなたが…?」


アオイは震える声でつぶやいた。


この猫が、自分をこの世界へ連れてきた張本人だと、直感的に理解したのだ。


黒猫はアオイの言葉に答えるように、静かに「にゃあ」と鳴いた。

その声は、アオイの心に直接語りかけるように、はっきりと響いた。


「ここは、君の望む場所かい?」


アオイは瞬時に、そして迷いなく答えた。


「はい…!ここにいたいです!現実の世界は、もう嫌なことばかりで…。親友のユイと喧嘩しちゃって、私が言いすぎたって分かってるのに、謝れなくて…。学校では、あの数学の先生がいつも怖い顔をしてるし、グループの作業もなんだか気を使うし、家では勉強しろってうるさいし…。もう、全部から逃げ出したいんです」


アオイの言葉を、黒猫は否定することなく、ただ静かに頷いた。


琥珀色の瞳は、アオイの心の奥底を見透かしているかのようだった。


「そう望むなら、しばらくここにいればいい」




黒猫に導かれるまま、アオイは異世界の森の奥へと進んでいった。


この世界は、アオイが夢にまで見たような、まさに理想の平和な世界だった。


地面には、どこまでも続くふかふかの苔が生え、足を踏みしめるたびに、まるで雲の上を歩いているかのような優しい感触が足の裏に伝わる。

苔の間からは、手のひらほどの大きさの、虹色の小花が咲き乱れ、そよ風に揺れるたびにキラキラと輝いた。


頭上を見上げれば、枝から透き通るような葉が何枚も垂れ下がり、その葉の間からは、淡く発光する綿毛がゆっくりと舞い降りてくる。

綿毛はアオイの肩に触れると、ふわりと消えていく。


森の奥には、湧き水が流れる小さな泉があった。

水は透き通り、底には七色の小石が敷き詰められている。


泉のほとりには、幹が真珠のように輝く木が生えていて、そこには見たこともない鳥が羽根を休めていた。

その鳥は、アオイが近づいても逃げることなく、澄んだ声で歌い始めた。

それは、まるでオルゴールのような、優しく心に染み渡るメロディだった。


空には常に三つの月が浮かび、昼も夜もなく、世界を優しく照らしていた。

昼間は青白い月と橙色の月が空に並び、夜になると紫色の月が加わり、幻想的な光景を作り出す。


この世界には、怒鳴り声も、悲しいニュースも、時間厳守のプレッシャーも、テストの点数もない。

ただ、穏やかな時間が流れ、アオイは心ゆくまでその平和を享受した。



最初の一見、アオイは夢見心地だった。


朝は小鳥のさえずりで目覚め、泉で顔を洗う。

昼は、不思議な甘い香りのする果実を食べ、午後は木陰で昼寝をしたり、虹色の小石を拾い集めたりした。

夜には、光るキノコの下で、黒猫の隣に座り、三つの月を眺めた。

悩みも、不安も、全てが遠い世界のことのように感じられた。




しかし、そんな理想的な日々にも、次第に微かな違和感が忍び寄ってきた。


最初は、泉の水があまりにも澄み切っていて、反射する自分の顔があまりにも穏やかすぎることが、どこか不自然に思えた。


次に、食べた果実の甘さが、毎日同じで、飽きがくるようになった。

どんなに美味しいものでも、毎日同じ味だと感動が薄れるものだ。


そして、小鳥の歌声も、最初は心地よかったけれど、次第に単調に聞こえるようになった。

いつも同じメロディで、いつも同じ調子。新しい歌を聞きたい、とアオイは無意識に望むようになっていた。


黒猫は、そんなアオイの変化を、じっと見つめていたようだ。

泉のほとりで、七色の小石を拾っていたアオイの足元に、黒猫は静かに現れた。


「ねえ、アオイ。この場所が、君が本当にいるべき場所なのかな?」


その問いに、アオイは少し迷った。

確かに、この世界は美しく、心地よかった。


だが、時折、ふとした瞬間に、物足りなさを感じるようになっていたのだ。


ユイと喧嘩した日のことを思い出し、あの時の自分の言葉が、ユイをどれだけ傷つけたか、今なら少し分かる気がした。


友達の、他愛ない話で笑い合う顔がちらつき、学校の廊下のざわめきや、部活動で汗を流した後の達成感を思い出したりする。


「もう少し、ここにいたいです。だって、あっちの世界は、ユイとの喧嘩もまだ解決してないし、あの数学の先生がいつも怖い顔をしてるし、グループの作業もなんだか気を使うし、家では勉強しろってうるさいし、テストの点数でガミガミ言われるし…。嫌なことばかりで、辛いんです」


アオイは、心に浮かんだ嫌なことを一つ一つ反芻するように呟いた。

猫はアオイの言葉に耳を傾け、再び静かに頷いた。


しかし、その琥珀色の瞳の奥には、何かを試すような光が宿っていた。

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