第25話 鴨川死医悪土(かもがわシーワールド)
二人は廃墟の中を進んでいった。
薄暗く
魚の写真も
水を抜かれた水族館は
その中で数体のドンビが亡霊のように
「ずいぶんと退屈なアトラクションだな……」
展示物の
建物を抜けると、プールと階段状の観覧席があった。
空のプールの底にはゴミと枯葉が溜まっていた。
「ドンビの一大リゾートになっていると思ったのだが、見込み違いだったか……」
落胆する世良彌堂。
「彌堂君、あれ」
プールのほうばかり見ている世良彌堂にチホは海のほうを示して言った。
観覧席の最上段に人々がいた。
皆、プールに背を向けて一列に並んでいた。
「ドンビどもめ、そこにいたか」
世良彌堂は
「さて、そこから何が見えるのだ?」
チホは階段の下で腕組みをしていたが、溜め息をついて上がり始めた。
ドンビたちはコンクリートの壁に貼りつくようにして立っていた。
彼らは敷地内の壁の端から端までほぼ隙間なく並んでじっと海面を見下ろしているのだった。
世良彌堂はドンビの背後から爪先立ちで
「どけ、ドンビめ。どけ、庶民……」
ドンビたちのうしろでぴょんぴょん跳ねている世良彌堂を尻目に、チホはバッグからレモンの香りのフロンガス・スプレーを取り出してあたりに吹きつけた。
すぐにドンビが反応を示した。
スペースが開くと、そこから下を覗いた。
「おい、どうした……何が見えるのだ?」
世良彌堂は、目を見開き、口を開けたままのチホの顔を
「ただの海岸じゃないか……どういうことだ?」
世良彌堂には何も見えていないらしい。
チホはドンビたちを見渡した。
各々焦点の合わない目で海を見つめているドンビたちの表情は心なし穏やかに見えた。
「おい、どうなっているのだ? こいつら、ここで何をしている?」
「イルカショーを見てるんだよ」
チホはまた海のほう見た。
「イルカショーはうしろだろう。最後の演目が終わって、もう五年はたっているだろうが」
チホの目に、浅瀬を泳ぎ回るイルカの群れと、一回りサイズが大きなゴンドウクジラが映っていた。
もう少し沖でジャンプしているのはツートンカラーのシャチだった。
さらに沖に見える潜水艦のような影。
海面から高く飛沫が上がった。
体長十五メートルはありそうな巨大なクジラだ。
「クジラだと!? 馬鹿な。何も見えんじゃないか」
世良彌堂は〈
「つまり、ラッセンが描くところのあの海洋の
ここは
ただ海の色に
「どうです、モアイみたいでしょう?」
二人が振り返ると、階段の下に薄いブルーの白衣を着た男が立っていた。
「海岸沿いで見晴らしのいい場所は大抵こんな状態ですよ。おかげで観光客には不評ですがね」
男は長めの白髪をうしろで束ね、枯れ木のように
田舎の中学校の理科の先生に相応しい
「
理由はわかりませんがね、と男はつけ加えた。
チホにはわかる気がした。
世界は電気で
実家の父親も含め町内会のSES患者たちが高圧線の真下に集められているのは、案外理に
「貴様が総病院長か?」
世良彌堂は男を見下ろして言った。
「はじめまして。
「単刀直入に
「ちょっと、失礼しますよ……」
霧輿総病院長はそう言って、パイプを取り出して
「貴様、医者のくせに喫煙者か」
「吸血者殿。ぼくはただの人間です。血液は飲みませんが、煙草がないと生きた心地がしないのです」
総病院長はパイプに火を着け、深く吸い込んだ。
煙はまさか胃の奥まで飲みこんでしまったのか、と思うほどあとになってから白く細い溜め息となってゆるゆると吐き出されていった。
「……医師の仲間でも煙草を毛嫌いする者は多いです。これで病気になった人間を大勢
総病院長はパイプを
円いメガネの下の細く鋭い目は、少なくとも地域医療に一生を捧げて自足するタイプの人間ではないことを告げていた。
チホは念のため、左手にナス型オモリを一個握っていた。
ドンビちゃんの目つきが変わる例の液体でも
「……医学とは、健全な肉体と精神のためではなく、むしろ
最後のステップを乗り越え、男は今チホと同じ地平に立った。
間近で見る霧輿総病院長は
大それた悪事を働くには年齢が二十歳余計で、体重は二十キロ不足している。
「貴様が食えない人間だということはよくわかった」
世良彌堂が老人を
「一つ
「いや、あの論文はいいものです。
老人は
今にも少年の頭を
「吸血者から
「ほう。結果は?」
世良彌堂の碧い眼が光った。
「ヤママリンを知っていますか?」
総病院長も円メガネの縁を光らせて答えた。
「確かヤママユガの繭から採れる物質と記憶しているが」
「これは話が早い。吸血者の繭に……」
「ヤママリンて何の薬? ヤママユガって、あの虫のガ?」
チホが割って入った。
ここを逃すともう二人の会話に追いつけないと思った。
総病院長はチホにわかりやすく
ヤママリンは休眠物質で、言わば冬眠の薬。
がん細胞をも冬眠させてしまう、医学者にとって魅惑の物質だという。
さらにヤママユガの繭には、セリシンも豊富に含まれている。
こちらは強い抗酸化作用を持ち老化を防止する物質。
工業製品としてすでに広く利用されている。
シルクプロテインという名前でチホが使っている化粧品にも配合されているかもしれない。
吸血者の繭を形成する糸はそのまま衣料の原材料として使える見事な
「ぼくは、それぞれ“ドラキュリン”と”ヘルシン”と名づけました」
吸血者の長寿の秘密の一端が明らかとなった。
ドラキュリンがあらゆる病に
この素晴らしい物質を使わない手はない。
総病院長は秘かに臨床試験を行った。
ドラキュリンとヘルシンをそれぞれSES患者に投与したのだ。
SESとは飽食と消費に明け暮れる現代文明の転換を
総病院長はそう考えていた。
SESの
だが、業に
「そんな都合のいい結末を期待したのですが、効きませんでした。試験はまだ途中ですが、おそらくダメでしょうな」
総病院長は吸い終えたパイプを胸のポケットに収めた。
チホと世良彌堂の前から離れ、海を見つめるドンビたちの列の隙間に細い体を滑り込ませた。
「そもそもこれは病なのだろうか。静かに終わりゆく人類のありのままの姿なのではないのか」
総病院長はドンビたちと並んで海を見ながらつづけた。
「人類が土を食べて満足できればそれに越したことはないのかもしれない。もう治す必要はない。ぼくの仕事は終わった……いや、人を治そうなんて、おこがましいことだったのかもしれない。この世を離れようとしている人を捕まえて、ベッドに縛りつけ、無理やり呼吸させ、せっかく訪れた死の邪魔をする。医師がやっているのは結局、そういうことではないのか。こうして海を眺めていると、時々そんな妄想に
「そのつづきは悪徳医師の
世良彌堂は総病院長の
「貴様の兄は繭を集めまくっている。やつは何を
「それは兄と同じ吸血者であるあなたがたのほうが理解できるはずです。ぼくは兄の考えていることはわかりませんし、知りたくもありません」
総病院長は振り向かずに言った。
「協会理事長の実弟とも思えない発言だな」
「うちの病院がブラッドウィルに出資していたのは事実ですが、それは兄が金を出せ出せとうるさく言うもので仕方なく
ドンビたちのすぐ目の前で、巨大なシャチがジャンプした。
ドンビたちの体がかすかに前後に揺れて列に
同じ海を見つめる霧輿総病院長の目にシャチの幻影が映っているのかどうかチホにはわからなかった。
(つづく)
(注1)クリスチャン・ラッセン
アメリカ・ハワイ出身の画家。プロサーファー。クジラやイルカをモチーフにエアブラシを使った独特の画風は「マリンアート」と呼ばれる。1980年代後半、バブル期の日本ではラッセンの作品、主に版画、リトグラフが大人気に。
余談だが、その頃、筆者はある出版社でアルバイトをしていた。バイト仲間にラッセンのリトグラフを大枚を叩いて購入した人がいた。聞けば、将来値上がりしたら売却する投資目的だった。昨年、偶然その彼と再会した。彼は競走馬を何頭も所有する馬主になっていた。インチキ臭い海の絵が本物のサラブレットに化けていた。あの絵を売ったかどうかは聞かなかったが、彼はラッセンの絵にふさわしい人物に大成していたのだ。
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