第26話 うっ血女子と血色わるい王子⑩
その
そこには〈
「兄はその島にいるでしょう。週末はたいていそこです」
「貴様の兄は島で何をしている?」
「さあ、ぼくには兄の考えはわかりません。ここから先は吸血者の世界の話です。では、そろそろ退場させていただきますよ。ぼくの患者たちが待っていますので」
そう言ってまたゆっくりと階段を下りていく霧輿総病院長に、チホは協会本部で兄・霧輿龍次郎に会ったことを明かした。
難解な吸血者ジョークを
「それは災難でしたな。つまらなかったでしょう」
総病院長は
「ぼくが言うのも何ですが、ああ見えて兄は油断のならない男です。お気をつけて」
* * *
二人はタクシーを拾って〈島〉を目指した。
チホが「
「おい、島だぞ」
世良彌堂が
二人は
同じ水系の
ところが、ここ大瑠璃ダムは周囲が二キロほどの湖水の中央付近に土砂が
県議会でダムを
それも三十五年も昔の話である。
二人は渓流に寄りそう細い林道の中ほどでタクシーを下ろされた。
林道の脇に
運転手の言葉通り五分歩くとリング状の小さなダム湖が現れた。
直径六百メートルほどの湖水に直径四百五十メートルほどの
中州にはすでに樹木が生い茂り湖水は
この大きな中州が通称「
よく似た名前の島でも、右と左でえらい違いである。
どこから乗りつけたのか湖岸に品川ナンバーの赤いジャガーが止まっていた。
きっと別のルートがあるのだろう。
「いるな……」
世良彌堂が仁左衛門島を
「見えるの?」
「邪悪な黒い影が、あの島を
チホの目にはただこんもりと緑が茂った中州が映っていた。
板を渡しただけの簡易な船着き場に
さっさとボートの後部の
「ちょっと、わたしが
「おれは非力だ。力仕事はおまえに
チホはしばらく腕組みしていたが、
オールをセットしてぎこちなく漕ぎ始めた。
右のオールは何とか動かせたが、左は水中に突き刺さったままなかなか抜き出せない。
ペダルを踏めば前に進むスワンボートとは違って、普通のボートは難しい。
チホは、昔公園の池で家族三人でボートに乗ったことを思い出した。
国体の選手だった父親が漕ぐボートは水を
父親の
まだ吸血者になる前で小学校低学年の女子にはオールは重く、まったく漕げなかった。
チホの手の上から父親が大きな手で一緒に漕ぐと、
あれは
「おい、まるでミズスマシだ。ぐるぐる回っているぞ」
世良彌堂に指摘され、振り向くと確かにボートは左旋回を繰り返していた。
世良彌堂の指示で右一回につき左三回の割合で漕ぐとボートはやっと仁左衛門島へ向かって進み始めた。
コツを掴んだ頃にはもうチホの背中に濃い緑色の島影が迫っていた。
やがてボートは遠浅の砂地へ乗り上げた。
そばに杭に
二人はボートを降りて
島は
世良彌堂は
チホはいつでも撃てるように、左手にナス型オモリを握っていた。
どこからか軽快なミュージックが流れてきた。
「ふん。夏の定番
チホはその曲に覚えはあったが曲名も歌手も知らなかった。
「あれか……」
世良彌堂が立ち止った。
広場の中央にテントが張られていた。
テーブルの上にラジカセやダッチオーブンや酒瓶が置かれている。
問題の人物はタープの下のデッキチェアに寝転んでいた。
赤いアロハシャツに
チホたちに気づいたようだ。
寝そべったまま日焼けした顔をこちらに向け、缶ビールを持つ腕を上げて見せた。
「こいつなのかよ」
世良彌堂が
「何と
二人がそばまで歩いていくと、男はデッキチェアから降りた。
「春すぎて
大滝詠一「君は天然色」をバックに、男は
「いらっしゃい、お二人さん。何を隠そう、ぼくが吸血者第1号、あの
世良彌堂が
「何言ってるんだ、こいつ……」
吸血者ジョークよ、と小声で教えるチホ。
「でも、その歌は
オールバックの銀髪を
「大友黒主さんを見たという話はよく聞くのですが、実際どうなんでしょうね。まだご存命なら、ぼくも是非会ってみたいものです」
笑い声が総病院長とそっくりだった。
「黒主などに用はない。おまえがこの薬害奇病騒動の黒幕だな?」
世良彌堂が言った。
「
霧輿はサングラスを押し下げて二人を見た。
「待て。孫だと? 弟じゃないのか?」
世良彌堂が問い
「戸籍上は弟ですが、あれは二度目の人生の孫ですよ。初めの人生の孫は大友黒主にも負けない優れた歌人でした。もうこの世にはいませんがね」(注3)
霧輿はそう言ってビールを
霧輿は二人に椅子を勧めたが、チホも世良彌堂も座る気はない。
テーブルを挟んで二人は霧輿と対峙していた。
テーブルの上のダッチオーブンからローストチキンの
「おや、あなたとは二度目ですね」
霧輿がチホを見て言った。
「しかし、この島でのぼくは日本吸血者協会の理事長ではありません。ただの
匿名希望という意味だろうか。
チホは世良彌堂と顔を見合わせて首を
「やだなあ……まだわかりませんか? 仁左衛門は通名ですよ。ぼくの正体は元
霧輿はサングラスを額まで押し上げ左目でウインクした。
「よろしくね」
「貴様、血迷ったか」
世良彌堂が碧い目をぱちぱちさせた。
「吉井? 薩摩だと?」
「また吸血者ジョークよ、どうせ」
チホも信用していない。
霧輿は自分が「吉井友実」であることを立証し始めた。
吉井しか知らない
吉井が日本初の民営鉄道「日本鉄道」の初代社長だった頃に揉み消した大事故について。
正直どうでもいい話だったが、チホは吉井が坂本龍馬の日本初の新婚旅行をお
「老人の昔話か」
世良彌堂が舌打ちして、
「貴様がかつて明治政府のB級高官で『坂本君』と大の仲良しだったのはわかった。それがイトマキ症の
「大ありですよ。この世の真実です」
吉井になった霧輿は
「ぼくは
「貴様が殺した?」
いつの間にか話に引き込まれている世良彌堂。
「ぼくが殺すべきだった。出来れば刺し違えて死にたかった……吉井友実一生の不覚……」
思い入れたっぷりに、
「ストップ!」
チホは世良彌堂と吉井の間を割るように腕を差し入れた。
「ここまでイトマキ症という言葉が一度も出て来ませんけど。はっきり言って歴史の真実とか、全然どうでもいい話なんですけど」
「おい、生き証人の貴重な証言だぞ」
世良彌堂が
「そうそう。話はここから佳境に入るのですよ、ここから」(注4)
吉井も言った。
「うるさい!」
チホは
「もう一度、前と同じことを
チホは一歩、吉井に近づいた。
「イトマキ症は、病気なの? 病気じゃないの? 治るの? 治らないの? わざわざここまで来てやったんだから、もう隠さずに知っていることを全部教えなさい!」
吉井は銀髪を撫で上げながらばつの悪い笑顔を浮かべた。
世良彌堂からも小さく舌打ちが
「質問の答としては……」
改めて語り始める吉井。
「イトマキ症は病気ではない。よって治らない。そういうことになりますかな」
「ほう。病気じゃなければ何なのだ?」
世良彌堂も話の本線に復帰した。
「イトマキ症とは、
「ちょっと、待って。マイクロ何?」
チホは
「μ吸血線虫。聞き慣れない言葉だ。何だ、それは?」
世良彌堂も驚いている。
「吸血者協会のトップシークレットですよ。簡単に言うと、ぼくたちはμ吸血線虫の〝巣〟なのです」
吉井は先ほど万感を込めて龍馬を語った同じ口で事もなげに言った。
「……ス?」
チホはまだ全然ピンと来ない感じだった。
「す。って……」
「ぼくたちが飲む血液は線虫の餌になります」
吉井は淡々と語った。
「そいつは寄生虫の類か? μ吸血線虫は、人間の腸に巣食ったサナダムシが食いものを盗み取るようにおれたちから血液を横取りしている、というわけか?」
世良彌堂が重ねて質した。
吉井は残りのビールを一気に
ごくっと
「失礼ですが、あなたはまだ生理がありますか?」
「貴様、レディーに対して失礼にもほどがあるぞ」
何となく馬鹿にされているような気がして、チホは世良彌堂の横顔を
「普通にあるけど、それが?」
「そうですか。なら、あなたはまだ生きている」
吉井は空になったビールの缶をこんっとテーブルに置いた。
「生きている? 何の話?」
またピンと来ないチホ。
吉井はチホから目を
「残念ながら、君はもう死んでいる。ぼくもだ」
「死んでいる、だと?」
「寄生虫とおっしゃいましたか……それはぼくたちのことですよ。この肉体はすでにμ吸血線虫のもので、ぼくたちはその器官を借りて今話しています」
「何を言っている?」
世良彌堂の肌がいつかのように、青ではなく緑色に冷めている。
「貴様は、何を言っている?」
虚ろな目で吉井を見上げた。
「おい答えろ」
「ぼくたちの死について」
吉井友実はにっこりと
「すでに死んでいるぼくたちについて、です」
(つづく)
(注1)小倉百人一首の二番歌
詠み人は史上三人目の女性天皇・持統天皇(645~703)。
(注2)大滝詠一「君は天然色」
作詞を担当した松本隆の死んだ妹を歌った曲だと知ると印象が変わってくる奥の深い楽曲。
(注3)吉井勇(よしい いさむ)歌人。(1886~1960)
父は海軍少佐、貴族院議員の吉井幸蔵。祖父は元薩摩藩士、伯爵の吉井友実。
黒澤明の名作『生きる』のブランコのシーンで有名な『ゴンドラの唄』の作詞者。
『ゴンドラの唄』
いのち短し恋せよ乙女
あかき唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを
(注4)
イトマキ症には過去三回の流行期がある。わが国最初のイトマキ症患者が確認されたのは明治維新直後。それから明治十年までに三八一例が報告され、その後ぱたっと姿を消した。イトマキ症が次に現れたのは太平洋戦争末期。昭和二十五年までに七八九例が報告された。第三期にあたる現在、平成十年から今日までに四五〇〇例を超える報告がなされている。第一期は文明開化。第二期は敗戦後の米GHQによる占領。第三期はグローバル経済の進展。いずれも国が開かれる時期に吸血者の間でイトマキ症が流行している。これを偶然とはせず「開国」「かいこく」「カイコ」「繭」と連想するのが「イトマキ症言霊説」。霧輿日本吸血者協会理事長は公にはしていないが言霊説の信奉者であり、ここでもしチホが止めていなければトンデモない珍説が始まったことは言うまでもない。
(注5)日本μ吸血線虫(にほんマイクロきゅうけつせんちゅう)
別名「μシーボルト線虫」。江戸時代後期、日本の吸血者事情を調べにやってきたドイツの吸血医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国外へ持ち出した血液サンプルから発見された線虫。ヨーロッパのμ吸血線虫の亜種と見られていたが、その後の研究で同種と認定された。
(日本吸血者協会・シークレットファイル「ドラキュペディア」より)
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