第10話 千葉電力少女シオリだけどまた出たよ
チホが旧友と劇的な再会を果たしていた時、あたしは〈1420〉の部屋で留守番をしていた。
もう死んでいるので特にやることもなく、リビングや廊下で電池をただコロコロ転がしていた。
チホが今どこでどうしているかはだいたいわかる。
電波をたどって彼女のスマホに入り込めばいいから。
バッテリーがすぐなくなるからあまりやらないけど。
廊下の突きあたりのドアは
あたしは二人の部屋の前でドアを見上げ、また廊下を引き返してきた。
* * *
理科斜架さんと蜘蛛網さんが元気だった頃は留守番にも
チホが仕事でいない平日の昼。
小さな双子と
理科斜架さんは電池の隣にカップを置いて、バラの紅茶を注いでくれた。
紅茶の湯気があたしの体を通り抜けて部屋の天井へ上がっていった。
「余計なお世話なのかもしれないけれど」
理科斜架さんは飲み終えたカップをソーサーへ戻して言った。
「あなた、いつまでここにいるつもり?」
「えっ、ご、ご迷惑でしたか? じゃあ、そろそろ部屋に戻り……」
「そうじゃなくて、
「娑婆……」
「あなたには行くべき場所がほかにあると思うけど」
あたしが死んだ当時、理科斜架さんも蜘蛛網さんも、あたしの存在を知らなかった。
隣の〈1419〉は普段は空き部屋で、ときどき男が出入りしている謎の部屋だったから。
部屋の中にもう一つ小さな部屋があって、椅子に
あたしが死んで
言っちゃ悪いけど、理科斜架さんたちは毎日飲んでいる血のせいでお鼻が馬鹿になっちゃっていたんだと思う。
管理人が警察を呼んで大々的にニュースになったのは死んでから二年後だもの。
あたしは一気に、家出娘から白骨化した高校生の死体へと二階級特進しちゃったわけなのだ。
こんなふうに有名にはなりたくなかったけど、どうせみんなすぐ忘れるしね。
「この世はね、ほかに行くべき場所がない者が仕方なく住むところなの。あなたは旅人になったの。旅人になったあなたは旅をするしかない。旅人はもうこの世には住めない」
「お、お言葉ですけど、理科斜架さんと蜘蛛網さんは、どうなんですか?」
あたしは
憧れの人に突然非難されてびっくりしちゃったんだと思う。
「とても優雅にお暮らしですけど、人間社会に迷惑かけてないですか? お二人も本当は、この世にいてはいけない人なんじゃないんですか?」
「時間を
そう言うと理科斜架さんは静かに椅子を離れて、蜘蛛網さんの前に立った。
二人は
「自分に嘘はつけても、時間に嘘はつけない」
理科斜架さんはつづけた。
「時間を亀のように追い越しても、必ず兎のように追い抜かれる」
理科斜架さんは赤い帽子を蜘蛛網さんの頭に載せた。
蜘蛛網さんが黒い帽子を理科斜架さんの頭に。
二人は帽子を交換した。
「ウサギト、カメニ、ゴールハ、ナイ」
蜘蛛網さんが言った。
「永遠に。わたくしたちのことです」
蜘蛛網さんが言った。
赤い帽子を結び終わると、蜘蛛網さんは理科斜架さんになっていた。
その横には、赤いドレスに黒い帽子をかぶった理科斜架さんが蜘蛛網さんの表情をして黙って寄り添っていた。
赤い帽子と一緒に理科斜架さんの中身が蜘蛛網さんの体に入ってしまったみたいだ。
「ここにいるのは、蜘蛛網と理科斜架」
理科斜架さんになった蜘蛛網さんはつづける。
「百五十年ほど前に、ある姉妹の遊びから生まれた架空の存在。わたくしたち自身は、もうこの世にはいない。本当の姉妹は、手の届かないところまで去ってしまった。もう二度とは戻ってこない」
吸血鬼は永遠に生きられる。
そう思った姉妹は、長い遊びを始めた。
二人で考えたお話を劇にして二人が演じるのだ。
劇は三十年続いた。
三十年も同じ役をやるとさすがに飽きる。
次の三十年は役を入れ替えた。
ストーリーはいつしか途切れた。
でも役は終わらなかった。
計算では役の入れ替えは五回起きている。
ある時、元の姉妹に戻ろうとしたら、思い出せなくなっていた。
劇を書いた、役を作った、あの二人はどこへ?
砂がてのひらから、こぼれ落ちて、残ったのは、役という魂の入れ物だった。
「
「大人しくあの世に行けってこと? もし帰ったら……あたしはあたしじゃなくなる?」
「あなたは消える。ほかの大勢と混ざり合って区別がつかなくなる」
「嫌だよ」
「肉体は土に還り、魂は水に
「そんなスピリチュアル、あたしは信じません」
「
理科斜架さんになった蜘蛛網さんがにっこりと笑った。
「話に落ちがついたわね」
真顔のままの理科斜架さんを
「今日の話、チホには内緒にできるわね?」
赤いドレスに赤い帽子を
「混乱させたくないの。あの子はまだ時間と共に歩んでいる。時間が立ち止まった時、どこへ向かい、どう歩くか。それはあの子が決めること」
蜘蛛網さんに戻った蜘蛛網さんが無言のまま、こくんと
* * *
あれ、体がシマしまだ。
電池の残りがなくなった。
少し転がりすぎた。
あたしは湯気みたいにユラユラ電池から抜け出した。
無色透明に戻ってチホが帰ってくるまでふわふわぶらぶらするのだ。
あたしは少し眠いような消えるような気持ちで窓ガラスを通り抜けた。
ぼんやりと空を漂ってマンションの庭を見下ろしていた。
青々とした芝生の一か所だけ、光っている。
電気だ。
あそこに電気がある。
どうして?
あたしはそこへ降り立った。
小さな銀色のボタン電池だった。
まだ使えるみたい。
誰が落としたのだろう。
もったいないからあたしが
電池の中へ入ると青白いあたしが登場した。
身長は15センチくらい。
ボタン電池だからしょうがない。
あたしは芝生の上を転がりながら、マンションを見上げた。
さっき飛び立った〈1420〉のベランダが見えた。
あそこからは港がよく見える。
双子がお気に入りのベランダだった。
* * *
蜘蛛網さんが発症した日もチホは仕事だった。
よく晴れていた。
午後のお茶の時間だった。
「あら、いい風……」
手招きするようにレースのカーテンが
理科斜架さんはカップを手にしたまま千葉港を
双子は風に誘われるように室内からベランダに置かれたガーデンチェアへ移った。
あたしもコロコロついていった。
「また夏が来るわね。春夏秋冬、同じ数だけあったはずなのに、夏が一番多い気がするのは
かちゃかちゃと音がした。
カップとソーサーが触れ合う音だ。
同じく港を見ていた蜘蛛網さんの首が、ぎこちなく揺れながら、並んで座る理科斜架さんのほうを向いた。
傾いたカップからバラ色の紅茶が滑らかに
「蜘蛛網! どうしたの!?」
蜘蛛網さんは椅子の背もたれに崩れるように身を
最初は薄い煙だった。
それがだんだんはっきりした形になって何本もの糸になった。
蜘蛛網さんは綿アメの機械のように白い糸を噴き出していた。
理科斜架さんは金縛りにかかったように
今まで鏡に映ったもう一人の自分だったものが別の姿に変わってしまったのだ。
理科斜架さんがやっと気を取り直した時には、もう蜘蛛網さんは薄いヴェールに
理科斜架さんは蜘蛛網さんの名前を呼びながら必死で
あたし?
今は冷静に思い出してるけど、その時のあたしは電池があっちへコロコロこっちへコロコロ、動揺してたよ。
チホが早引けで帰ってくるまでコロコロだった。
霊なんて本当、役立たず。
チホと理科斜架さんは手分けして看病したり情報収集したりした。
理科斜架さんが古い知り合いに
チホは協会に何度も電話をかけたけどわかったことは「イトマキ症」という言葉だけで、それがどういうものでどうすればいいかは教えてもらえなかった。
〈1420〉には、今白くてやや青味がかった「
皿や壺や置物など長年かけて集めた品々でいっぱいの理科斜架さんの部屋も、蜘蛛網さんの物がほとんどない部屋も、二人の体から出た「糸」でひどい飾りつけをされてしまった。
スパイダーマンが仕掛けた
二人が包まった繭は、それぞれ網目のような繊維に
不器用なガリバーのあやとりがこんぐらかって
それが現在の理科斜架さんと蜘蛛網さんだ。
理科斜架さんが発症した時のことはチホのほうがよく知っている。
蜘蛛網さんの十二日あとだった。
チホは三日間くらい
彼女は本当の親と別れて双子と暮らしていたから二度家族を失ったようなもの。
まだ決まったわけじゃないけど、そうなりそうだ。
* * *
「どうされたんですか? こんなところでポツンと」
振り向くと、柱が二本立っていた。
見上げると巨人の顔があった。
「おや、これは……ちょっと失礼しますよ」
管理人の
「もうあまり電気も入ってないし、捨てちゃってください」
あたしは大きなてのひらに乗って枠林さんと話をした。
「いや、助かりました。知らずに芝刈り機で巻き込むと、刃こぼれしてしまいますからね」
あたしは枠林さんのてのひらにしゃがんで手相に顔を近づけた。
「管理人さん、生命線長いですね。きっと、まだまだ生きられますよ」
枠林さんは大きな口を開いて笑った。
電池が揺れて、あたしの体も小刻みに波打った。
「この前、お父様とお母様がテレビに出ていました」
世間話が済むと、枠林さんのマイルドなお説教が始まった。
「犯罪被害者の特集で、インタビューに答えておられました」
「そうなんだ。チホはあんましテレビ見ないから、あたしも全然見れないよ」
「立派な活動をされているようです」
「死んでから、気にしてもしょうがないのに」
「気がついてから始める、というのも大変なことです」
枠林さんもあたしがこの世にいるのは、あまり良くないことだと思っている。
あたしが家族のことが好きじゃないから、それが心残りでまだ成仏できないと考えているようなのだ。
別にいたいからいるだけなんだけどね。
何が何でも成仏しなきゃならないっていう価値観、どうにかならないものか。
それ、生きている人の幻想だよ。
「死んでもこの世に残って、いろいろ見たり聞いたりするのもありなんじゃないかな。そうは思わない?」
「すいません。頭の古い人間ですから、なかなかそういうふうには……」
枠林さんは
深い井戸のような瞳の中に、口を
「あたしそろそろ行くね」
あたしは、てのひらから空へ飛びたった。
枠林さんが小さく溜め息をついて、てのひらに残された小さな電池を胸のポケットに収めていた。
(つづく)
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