第4話 鎖

「どこだナムー! 返事をしろ!」


 血眼になって砂漠を探す。やはり鎖を付けておくべきだったと男は後悔していた。


 ナムーがいなくなったのだ。あの不気味な村を出て歩き続けた翌日、朝起きるとナムーの姿がなかった。


 まさか、盗賊どもにさらわれたか。


 だがそれならば他の荷物も持って行っただろうし、男も殺されていたはずだ。ナムーだけがいなくなっていた。


「あのガキ、人が下手に出ていれば……!」


 男は嫌でも勘付いた。ナムーは自分の意志で逃げたのである。到底許されないことだった。


「やはりもっと怖がらせておくべきだったか、ナムーめ……!」


 あの地下での奴隷暮らしから解放してやり、盗賊や砂嵐からも守り、あの村でも殺されかけていたこところを助けてやったというのに、結局はこの仕打ちだ。恩をあだで返すとはこのことだ。


 慌てずとも、逃げた方向はわかっている。ナムーはあの村に戻ろうしているに違いなかった。男は来た道を戻って行った。


 すると、いとも簡単に足跡を見つけた。子どもの足跡である。間違いなくナムーだった。


「ふん、軽はずみなことをしたらどうなるか教えてやる。人がせっかく助けてやろうっていうのに……」


 せっかく、奴隷から人間にしてやろうというのに。本来であれば高値が付く容姿だが、それでも売らずにおいてやろうというのに。やはり奴隷ではそこまでの頭も回らないのか。


 男は首にかけた鎖を握る。今度こそこれをナムーの首に付けて、目的地に着くまでは外さないことに決める。だがそれだけでは足りない。ある程度の折檻は必要だろう。場合によっては村でくすねたこの短剣をちらつかせて、二度と反抗しないよう教育することも必要かもしれない。


 そうして一時間ほど、足跡を追っていた時だった───


「ナムウウウウウウーッ!」


 ついに男はナムーの背中を見つけて叫んだ。気づいたナムーが走り出す。村まではまだまだ距離がある。


 大人と子どもの歩幅では、すぐに差は縮まる。男はナムーの肩をつかみ、乱暴に引き倒した。砂が巻き上げられ、土煙が立ち上る。


 ナムーはすでに泣いていた。男はその泣き顔に向かって次々と拳を飛ばした。


「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!」


「俺から逃げやがって! 何が不満なんだ、えぇっ! そんなにあの蛮族どもの村であぶりの刑にされたいか!」


「ごめんなさいロンさんっ、ごめんなさいいいいっ!」


 折檻は五分ほど続いた。乾いた砂にナムーの血が染み込む。


 男はようやく荒い呼吸を整え、我に返る。このくらいでいいだろうと、返り血がついた拳をほどく。ナムーは足元でガタガタと震えていた。声を殺して泣いていた。


 これで充分にりただろう。男は膝を付き、ナムーの頭を撫でて優しい声で言った。


「お前が攫われたかと思って心配したんだぞ。心配だったからこうしたんだぞ。わかるな、ナムー?」


「…………」


 ナムーは声を出さずに何度もうなずく。心が痛まないはずがなかった。胸が罪悪感でいっぱいになったが、これが男の仕事であり、教育である。男はこれ以上ナムーを怖がらせないよう、たくさん頭を撫でながら言った。


「ナムー、動くんじゃないぞ。俺と一緒にいれば、あんな村じゃなくて本当の楽園に行けるんだ。嘘じゃない。奴隷としてではなく、お前が人間らしく生きられる本当の楽園に行けるんだ」


「………………」


「ん? なんだ?」


「………………」


 ナムーが何か言おうとしているが、聞き取れない。男はナムーの話をちゃんと聞こうとして、耳を近づけた。


「どうしたナムー? もっと大きい声で言ってくれ」


「ロンさん……」


「うん、なんだ?」


「ぼくはナムーじゃない、4号だ……!」


「なっ……」


 それはどういう意味だと聞き返す間も、驚く暇もなかった。


 ナムーは男の首元にかけられていた鎖をつかみ、それを一直線に引っ張ったのである。ガチャリと音を立てて男の首がまる。男はすぐさま叫んだ。


「なっ、何をするっ! やめろナムー……!」


「ロンさんなんて大嫌いだっ! 本当はぼくを人間じゃなくて、奴隷だって思っているくせにっ! 大嫌いだあああっ!」


「かっ、くこ……⁉」


 凄まじい力だった。


 こんなきゃしゃな子どものどこからこんな力が湧いてくるのか。ナムーは必死の形相で鎖を引っ張り、男の首を絞めていった。


 男はナムーの腕に爪を立てて抵抗する。だがナムーはやめなかった。


 やがて視界が明滅し、ふっと頭から力が抜ける。腕からも脚からも力が抜ける。鼻腔の奥から甘い匂いがして、鼓膜が無音になった。男の目は極限まで開かれていた。


 死ぬ───そう確信した瞬間だった。


 ふっと、鎖が緩んだのである。


 止まっていた血が一気に頭へ駆け巡る。指先にも熱い血が巡り、力が戻る。


 そして男は素早くふところから短剣を取り出し、目にもとまらぬ速さでナムーの胸へと突き立てていた。音もなく、するりとまで刺さった。膨らんだ水袋を割ったような感触があった。


「ゲホ、ゴホッ!」


 鎖から解放されて、男はその場に倒れて激しく咳き込む。しばらくは目を閉じたまま、何も考えられなかった。全身の血が元の流れに戻るまで、そうして顔を上げなかった。


 だから、再び目を開けた時になってからおのれのしたことを思い出した。


 心臓の位置に短剣が刺さっており、そこからこんこんと血を湧き出しながらナムーは倒れていた。


「ナムー!」


 慌てて少年の元へ駆け寄る。ナムーの顔色は真っ青になっており、息はしているが眼球はまったく動いていない。その息もゆっくりと浅く、弱くなっていく。


 ナムーの血を吸って、辺りの砂は赤黒く固まっていた。


「すまないナムー! 仕方なかったんだ、わざとじゃないんだっ! お前があんなことするから……!」


 聞こえているのか、そうでないのかもわからない。それでも男は声をかけ続けた。男が落とす涙でナムーの顔が濡れる。そのすべてに、ナムーは何ら反応しなかった。


 そしてナムーは、唇を動かさずに声だけで最後に言った。


「イチ、ゴウ……」


 それきりことれた。


「ナムウッ! ナムウウウウウウーッ!」


 男はナムーのなきがらを抱いて、泣きに泣いた。


 日が落ちるまでずっと泣き続けた。


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