1-8 希望が崩れる音
「で、でかい!」
「フツーにクマじゃねーか!」
近くにいた客達が悲鳴を上げて逃げ出し始める。すると、クマは隣のテーブルに爪を突き付けると落とした料理をむしゃむしゃと食べ始めた。
「お、落ち着いて! 私のことがわかりますか!?」
声をかけても無反応だ。まるで聞こえていない。
「イルミン、離れて! 今、荒事専門のメイドを呼んでくる!」
「そんなメイドいたっけ!?」
「見回り係とか、植物園の剪定係とか!」
それでどうやってクマ相手に戦うつもりなんだ。厨房にいた子達も包丁やらモップやらをクマに向けて出てきたけれど、あれを力で押さえようと思う方が間違ってる。
そこでクマが料理から顔を上げて私を見た。
「うっ」
つぶらな瞳には理性的な色はまるでない。ただただ昏いだけの瞳に射すくめられて、まるで金縛りにあったように私は動けなくなった。
息が詰まるかのような緊張感に、過呼吸を起こしそうになる。
その時、それを打ち破るかのようにピアノの音が響いた。
「この音色は――!」
クマが私の横に視線をそらすと、アニンがおもちゃのピアノを片手に曲を弾いている。やけにキーが高い音だけれど、私もその曲には聞き覚えがあった。
「子守歌!?」
「これでも聞いて落ち着きやがれ!」
無茶苦茶だった。
けれど、アニンの細い指が叩き出す音はおもちゃだろうと、あっという間に耳に馴染んだ。もし、この場じゃなかったら五分も経たずに私も目蓋が重くなったに違いない。
クマの動きが止まり、客達の喧騒も落ち着きを取り戻していく。
「あたしが弾く曲が心を打つっていうなら、わかるはずだろ。マジであんたが獣じゃなくて人だっていうんなら」
そう挑むように言うと、クマが突然頭を押さえてうめき声を漏らした。そのまま、うずくまると動きが次第にゆっくりとしたものになっていく。
「お客様……?」
私がそう声をかけると、わずかに顔を上げた。その目はさっきの獣のそれとは違う、子グマだった時の優しい目で――
「今だ! 捕まえろ!」
アニンが叫ぶと同時に、メイド達がクマを取り囲んだ。
モップで体を押さえつけると、縄を持った子が現れてクマをぐるぐる巻きにしていく。
「え、ちょっと待って!」
「イルミンは離れて!」
彼女達は必死な形相で縄を結んでいった。いつの間に参戦したのか、清掃係の三人組もいる。全員でクマの手足どころか、嚙みつかれないように顎までしっかりと巻いていった。
「このまま、どうする!?」
「運べそうなら、玄関の外に放り出そう」
「いや、それだと明日来られた時がやばい。どっかの部屋に閉じ込めよう!」
彼女達は口々に言い合うと、今度は大勢でクマを押し始めた。
「みんな待ってよ! 落ち着いたんだから乱暴するのは……」
「そっちこそ、落ち着いてよ。この惨状を見て、何とも思わないの?」
メイドの一人が振り返ると、私に鋭い眼差しを向けた。
言われて見れば周囲のテーブルや椅子は倒れて、料理は床にぶちまけられている。皿もそのほとんどが粉々に割れていた。
「一体、何なんだ!」
さらに乱暴な声が聞こえたと思うと、壁際に集まった客達からだった。
「死んでから殺されるとか冗談じゃないぞ!」
「もう食べる気も失せた! 今日は帰る!」
「今までで一番最悪な夜だったな」
彼らの怒声が大広間に響く。続々と外に向かって出ていく客達を見て、私は足が震えた。
本当なら今すぐ彼らのもとに言って謝り倒さないといけない。なのに、まるで体が動かない。
「イルミン、くちばしマスクのやつがいないぞ。あいつ逃げやがったんだ。って、イルミン?」
アニンが私に声をかけてくる。それに返事をしようとしたけど、もう無理だった。いろんな感情が一度に押し寄せてきて、声が出せない。
「イルミン!? おい、どこ行くんだ! おーい!」
どうしようもなくなった私は、応える代わりに俯いたまま走り出していた。
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