「春の瞬き」(4月20日)

 寒い。


 布団はしっかり被っているのに、得体の知れない寒気が全身に張り巡る。

 開こうとする瞼は重く、体はベッドに貼り付けにされているよう。


 熱かな……。


 怠い体をゆっくりと起こし、部屋を出る。

 廊下を歩く足はジンジンと痛み、手先や関節は麻痺したような感覚だった。


 リビングにある体温計へと手を伸ばし、脇に挟む。


 ピピピピ…ピピピピ…


 電子音の合図で取り出して見ると、三十九度六分と表示されていた。


 カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。

 そっと開け、手を伸ばした窓のひんやりとした冷たさがひどく心地良い。

 外はまだ少し暗いが、穏やかな朝焼けが東の空を薄く彩っているのが見えた。


「おはよう。早いね、どうしたの」


 母が起きてきた。


 母の朝はいつも早い。

 父は単身赴任中で、この家には母と私の二人きりだ。

 いつもなら、私が起きる時間にはもう家を出ている母と、朝に会話をするのはどこか不思議だった。


「お母さん、熱が出た」


 喉の奥から、元気のない掠れた声が出る。


「え?」


 母は目を擦る手を止め、驚いた表情をして、心配そうに駆け寄ってきた。


「本当だ。どうしよう、お母さん仕事休めないわ。一人で病院いける?」


 私の額にそっと手を当てて、申し訳なさそうに言った。


「うん、大丈夫」


 小さい頃から家で一人で過ごす時間は多かった。

 風邪をひいても、静かな部屋で、じっと寝ていることには慣れている。


 それに、母に無理を言うのは申し訳ない。


「病院が開くのは九時くらいだから、それまで横になって休んでなさい。学校が始まるまでには、治しとかないとね」


 そう言うと、慌ただしく仕事へ行く準備をしだした。

 その光景を後ろから眺め、「わかった」と言ってリビングを出た。


 夢を見た。


 どこまでも青く澄み渡る大空と、世界の果てまで続いているような大草原。

 暖かい雰囲気に囲まれながら、微風に靡く木陰で、母と一緒にピクニックをしている。


 そんな夢だ。


 手作りのお弁当に、色とりどりの焼き菓子。

 周りには色鮮やかな花々が、幸せなひとときを祝福するように咲いている。

 そして、ふと横を見ると、母が嬉しそうに笑っていた。


 昔から変わらないような、初めてのような、何にも代えがたい光景に、嬉しさと身勝手な思いが溢れてゆく。


 ずっとこうしていたい。

 他に何もなくていいから、母とこうして、ただ穏やかに過ごしていたい。


 思いは募るばかりで、次第に私の心を重くしていく。

 その想いに押しつぶされそうになったところで、終止符を打つように、ふと目が覚めた。


「あ、起こしちゃった?」


 ひんやりと冷たい母の手が、私の額に乗せられている。

 体は熱く、少し汗ばんでいるのが分かった。


「お母さん、どうして……」


 仕事に行ったはずの母は、今朝見た寝巻きではなく、仕事着の姿で私の部屋にいた。


「無理言って、仕事休ませてもらったの」


 そう言うと、私の頭をそっと撫でた。


「一緒に病院行こうか」


 優しく微笑む母の顔を見て、嬉しさを隠すように小さく頷いた。




 外へ出ると、冬の気配はすっかり消え、マスク越しにも春の暖かい風が伝わってきた。


「今日はあったかいね」


 母が歩きながらそう呟く。

 熱に冒されながらも、目の前に広がる春色の景色に、美しさを感じる。

 まるで天国を歩いているような、そんな気分だった。


 病院へ向かう道の途中、ぼんやりと映る景色の奥に桜並木が見えてきた。


 緩やかに揺れる桜の木から、風に乗るようにしてひとかけらの桜が舞い降りてゆく。

 平凡な道を華やかに彩りながら散ってゆくその光景は、ここにしかない絶景だ。


「こんなふうに、一緒に桜の下を歩けるなんてね」


 母が私の隣で楽しそうに言った。

 平日のため人通りは少なく、まるで夢の続きを見ているような不思議な感覚だった。


「いつまでこうしていられるかな。毎日が忙しいと、こういう綺麗なものが見れなくなるのよね。もっと大事に生きなきゃだめだね」


 母の何気ない言葉のひとつひとつに、目の奥から温かい感情が湧き出てくるのを感じた。

 嬉しさや喜び、そして、知らぬ間に溜まった弱い感情が複雑に混ざり合ってゆく。


 それはきっと、熱のせいだ。


 暖かい春の風に、木々は小さく揺れ、桜は儚く散ってゆく。

 それは瞬きをする間に過ぎ去ってゆく、日常のよう。


 どれだけ懸命に生きようと、どれだけ多くのことを成し得ようと、いつかは全て忘れ去ってしまう。

 それならば、こういう小さな幸せを見逃さないでいたい。

 特別な毎日でなくとも、目に映る景色を見て、綺麗だと思えるこの感情だけは、無くしたくない。


「来年も一緒に見ようね」


 母は私の手を優しく握り、隣で嬉しそうに笑っていた。

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