「露光」(6月15日)
雨。
薄灰色に染まった空と淀んだ空気。傘に落ちる雨粒の振動が、持ち手を介して伝わってくる。
今年もやはり、梅雨入りを迎えた。
「雨は、好きか嫌いか」と問われたなら、僕は「どちらでもない」と答えるだろう。
汗ばむ体に纏わりつく湿気や、気圧の影響で起こる偏頭痛のことを思えば、迷わず「嫌い」と即答したくなる。
しかし、冬を超えてきた薄い空色が、夏に向かって徐々に濃く染まり、日ごとに明るさを増していく中、突然襲うように降る雨は、思い通りにはいかない、決して甘くはないこの世を表しているようで、好きとまではいかないが、嫌いではないのだ。
たとえば、目の前に二つの絵画を置かれ、自らの価値観でその良し悪しを判断するとしよう。
一つは、まるで天国を思わせるような、恍惚とした美しさを湛えた絵画。もう一つは、この世の闇を濃密に描き出した、重く暗い絵画。
多くの人が自然と前者に惹かれて手を伸ばす中で、きっと僕は後者を選ぶ。
それは、僕が「この世は美しさばかりではない」ということを知っている〈大人〉であるからと同時に、醜さや貪欲さの中にこそ、真に美しい情景が宿ると信じている人間だからだ。
あるいは単純に、僕が画家として、日々そのような絵を描いているから、なのかもしれない。
筆を持ち、自分の見る世界だけを描く毎日に、生活の糧が伴うようになったのは、つい最近のことだ。
夢を見ているだけではやはりそう簡単に叶うはずもなく、少し前まではアルバイトをしながら、片手間でしかキャンバスに向かうことができなかった。
しかし、努力の甲斐あってか、今は四六時中アトリエに籠り、次に出す作品の制作に専念する日々を送っている。
そんな変わり映えのない毎日でも、心は以前よりも澄んでいるのだから、やはり自分がやりたいと願い続けてきたことは間違いではなかったのだと、安心さえしている。
コンクリートの地面や傘に響く雨音を背景音として、静まり返った歩道を歩く。
ビニールの傘越しに見えるのは、懐かしい街並み。色褪せた場所や、跡形もなく新しい建物へと変貌を遂げた景色もある。
十年前、逃げるようにこの街を去った。
画家になることを憧憬していた僕にとって、意見の食い違いから生じる父親との毎日の喧嘩は、邪魔でしかなかった。
父は、医者だった。
苦労して大学に入り、学習に励んできた父にとって、勉学こそ安定した生活の最短の道であると信じて疑わなかった。
そんな父に憧れを抱いていた時期もあったが、自分が望む未来を理解してくれないことに次第に嫌気がさし、ついに喧嘩別れをしてしまった。
しかし、先月開催した個展の撤収作業も落ち着き、現状の報告も兼ねて、久しぶりに会おうと約束をしたのは僕の方だった。
今日は父の日だ。
感謝の言葉や贈り物は照れ臭くて用意していないが、もう随分と顔を合わせていない父に会うだけでもいいだろうと、こうして昔住んでいた街に戻ってきている。
まだ実家に帰れるほど心の余裕はなく、昔よく行った喫茶店で会うことになった。今の僕にはそれが精一杯だった。
その喫茶店は、パンの販売も行っており、近づくにつれてほのかに匂う香ばしい香りが、懐かしく感じる。
傘を閉じ、アンティークなドアベルの音とともに中に入ると、湿った肌を乾かすように、涼しい空気が包み込んできた。
「いらっしゃいませ」
快い挨拶で出迎えてくれた店員にもちろん見覚えはなかったが、軽く会釈を返す。
店内を見渡しても父の姿は見当たらなかったが、窓際のテーブル席に運ばれたばかりのコーヒーが二つ置かれているのを見て、「あの席の連れの者です」と先ほどの店員に声をかけ、その席へ向かった。
数分ほど経って、奥のトイレから父が出てきた。
「久しぶり」
僕を見つけるや否や、無言で向かいの席に腰を下ろした父に、さりげなく声をかける。
「ああ」
目を合わせず、躊躇いがちな口調で、父は相槌を打った。
記憶の中の父より、白髪の数が増え、背も心なしか縮んでいるように感じた。
気まずい空気が流れる。
窓の外を見ても、まだ雨は降り続けていた。
沈黙を切り裂くように、勇気を振り絞って言葉を放つ。
「あの日、父さんが言ったことの意味が今ならわかるよ」
十年前、父は僕に投げかける言葉の最後に、いつも「いつか父さんの言った事がわかる日が来る」と付け加えていた。その意味が、当時は当然のように理解できなかった。
夢を追うことに必死で、息子の心配をする父親のことなど、考える余裕はなかったのだ。
すると、目を見開いてこちらを見ていた父は、少し和らいだ表情でこう言った。
「稼ぎ方も知らないまだ幼いおまえが、その道に進むのは辛く厳しい人生になると危惧していた。心配だったんだ。……それでもなお、その道に進むことを選んだのなら、きっと本当にやりたいことだったんだろうな」
そう言う父の表情には、どこか諦めがついたようなものも見えた。
人生の全ての選択が、今の自分を左右するという。それならば、父親と喧嘩した毎日も決して無駄ではなかったと、今ではそう思える。
「ありがとう、応援してくれて」
ふと外に目をやると、雨は先ほどよりも小降りになっていて、窓についた雨粒が、遠くの光を受けて小さく輝いていた。
「雨、ちょっと止んだね」
「ああ」
それきり、僕と父はまた口を噤んだ。
雨はまだ降り続いているけれど、心はやはり澄んでいる。
それはまるで、今でも目に映る暗い記憶が、少しずつ光を取り込んでゆくようだった。
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