「晴天を濁す」(6月8日)

 朝の弱々しい指先で、逆三角の印を囲った丸いボタンを押す。


 腕時計の文字盤を見て、まだぼんやりとしている頭で、ここから学校までの所要時間を計算する。


 今日は、少し余裕がありそうだ。


 先客を乗せた箱は、ガシャンと鈍い音を響かせながら開き、僕は挨拶と小さな会釈をしながらその中に乗り込んだ。


 外に出ると、ここ最近では珍しい、雲ひとつない晴天が僕を迎えていた。

 それはまるで、梅雨入り前の最後の晴れ間を告げるかのようで、マンションなどの建物の背景を彩る澄んだ青色は儚く、その美しさにきっと誰もが心を躍らせる、希望の朝だった。


 ふと肩にかけた鞄に備えている折り畳み傘の硬さを、鞄越しに感じた。


 今日は、使わなさそうだ。


 朝陽に照らされた煌めく歩道を進み、もうすっかり目覚めた足取りで学校へと向かった。




 最寄駅のホームに着き、最近整備されたホームドアの前の列に並ぶと、さすがに暑かったのか、脇に汗が滲むのを感じた。


 電車の到着を待つ間、鞄からヘッドフォンを取り出して装着し、スマートフォンを開いて音楽アプリを立ち上げ、お気に入りのプレイリストを慣れた手つきで探し出す。


 再生ボタンを押すと、柔らかなピアノの音色が両耳から流れ込んできた。


 音楽アプリを閉じ、次にメモアプリを立ち上げた。

 画面に表示されたのは、一行十文字程度に打たれた言葉が、四、五行ほど続き、それが改行を挟んで繰り返されているものだった。


 続きの行をタップし、自動で開くキーボードを打とうとした時、ホームにアナウンスが鳴り、ガタガタと電車の迫る振動が大きくなりだした。


 前を過ぎる電車の勢いのあまり、吹き抜ける風で髪が少し乱れる。

 到着した電車から降りる人を待ちながら、頭を撫でるようにして髪を直した。


 通学や通勤ラッシュのこの時間に、座席に座れることはほぼない。

 僕はいつも通り反対側の扉の端へと真っ先に行き、その場所を陣取るように扉にもたれかかる。


 僕が降りる駅まで、こちら側の扉が開くことはない。

 だからこの場所は、目的地までのいつもの定位置となった。


 開いた扉が閉まり、電車が風景をスライドさせながら走り出す。


 それを少し眺めてから、時間が経って閉じてしまったスマートフォンの画面を再び開いた。


 流れゆく景色を時折眺めながら、穏やかなピアノ曲を聴きつつ、長方形のデジタル用紙に文字を刻んでいくこの作業は、僕の日々の習慣だった。


 昔から感受性が豊かだった僕は、映画や小説を目にしていく中で、真似事のように自分の気持ちを文字に起こすことが増えた。


 最初は日記帳だけに記されていたその言葉は、やがて一つの場所にとどまらず、部屋に散らばる紙切れや授業中のノートの端など、まるで僕の生きた痕跡のように、私物のあらゆる場所に広がっていった。




 詞は魔法だ


 想いがあるから世界は立体的で


 言葉があるから世界は鮮やかで


 文字があるから世界は不滅なのだ


 朝、家を出て最初に目に入る空の模様も、電車の窓に映る流れる街並みも、学校で触れる人それぞれの色も――見て、聞いて、体感する全ての出来事が、この世で唯一完璧とさえ思える「言葉」という表現技法によって、次第に美しさを帯びていった。


 かつては灰色にしか見えていなかったものが、言葉ひとつでこんなにも彩りを変えることを、僕は知ってしまった。

 いつか、僕の紡いだ文字が世に羽ばたき、その言葉が僕を生かしてくれたらと、漠然とした夢も抱いていた。


 手を休めることなく文字を打っていると、画面の上からメッセージの通知が届いた。


[7:23 今日お父さん帰ってくるよ]


 母からだ。

 たったの十二文字に、僕は動かしていた手を止めた。


 先週、ついに僕の夢を母親に話すことを決心した。

 僕が語る曖昧な未来像に、不安な表情を浮かべながら、心配事や注意ともとれる言葉をいくつか口にした母だったが、最後には「応援している」と優しく添えてくれた。


 僕が内に秘める思いを打ち明けることができた母に対し、父にそれを話す勇気はまだ持てずにいる。 


 幼い頃から父は家にいることが少なかった。

 夜勤で職場に泊まり込むことや、遅くまで仕事で帰ってこないなど、むしろ父のいない日常が普通だった。


 そのため、僕は父と話すことが得意ではない。

 何を考え、何を思い、どんな返事が返ってくるのかさえ、皆目見当もつかないからだ。


 しかし母は「夢を追いたいのであれば、お父さんにも知っててもらいなさい」と、僕に試練を与えた。


 母がその知らせをわざわざ送ってくるということは、今日言うべきだということなんだろう。




 授業を受けていても、今日は何も頭に入ってこなかった。


 深緑の黒板には白いチョークで板書が羅列され、その中には黄色の線引きや丸で囲まれた部分もあったが、ちゃんとノートに写したか定かではないし、先生が教壇の端に手をかけながら、もうすぐ始まる期末テストの情報を話していたように思うが、僕の頭は父に伝える言葉を組み立てることで精一杯だった。


 父は、自分の歩んできた道を信じて疑わない。

 実際、苦労して大学を卒業し、今の職に就き成功している。

 そのため、僕のやりたいことを、素直に受け入れてくれるとは思わなかった。


 父の返事は予測できないが、前にも一度将来のことについて話をしたことがあった。

 その時の父の反論を今でも鮮明に覚えている。


 きっと「その仕事でお前は生きていけるのか」「やりたいとなれるは違う、夢ばかり見るな」などと返ってくるに違いない。


 ただ一言、「応援している」と、そう言ってくれるだけでいいのに。


 帰りの電車に揺られ、窓から差し込む夕陽に目を細めながら、そう願っていた。




 家に着くと、玄関にはいつもは目にしない大きな黒い革靴が置かれていた。


 大きくなっていく胸の鼓動と、緊張して強張った顔をほぐすように「ただいま」と放った。

 すると遠くから二つの声色で返事が返ってくる。


 直接リビングには向かわず、一度自分の部屋に行き、異様に重く感じた鞄をゆっくりと床に下ろした。


 リビングの扉を開くと、ソファに腰掛けていた父が目に入る。

 僕はゆっくりと近づきながら息を整える。

 何事かと顔を向ける父の目を見て、真剣な顔で言葉を放つ。


「父さん、話があるんだ」


 もうすっかり暗くなったであろう窓の外からは、微かに雨の降り出す音が聞こえた。

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