「新世界」(3月16日)

 朝目覚めると、いつもと変わらない天井が、ぼんやりと目に映った。


 壁にかけられた時計の針は、七時を指している。


 充電していたスマートフォンのコードを引き抜き、ロック画面の通知を開いた。


 メッセージが一件、母からだった。


[6:32 おはよう。朝ごはんはラップをかけて食卓に置いてます。電子レンジで温めてから食べてください。今日は金曜日だから帰りは遅くなります。夕飯はお母さんの分、用意しなくても大丈夫です。学校気をつけて行ってきてね。]



 父は私が幼い頃に他界した。


 当時はそれなりにショックや不安も大きかっただろうに、放棄することもなく、女手一つで私を育ててくれた母。


 そんな母に苦労をかけてはいけないと、私は何事にも積極的に取り組むようにしてきた。


 学校が終われば、即帰宅し、家事をこなす。掃除や洗濯、買い物に晩ご飯の準備。

 他にも、毎日の授業の復習や予習、テスト勉強など、やることは無限にあった。

 先生からの評価もそれなりに良く、成績は常に上位を維持している。

 放課後に友達同士で遊びに行ったり、部活動に励んだりしている同級生を、羨ましく思うこともあったが、そんな時間は私にはなかった。


 自分のためでもなく、ただ周りの期待に沿うように、母に心配をかけないように、生きるので必死だった。


 駄々をこねることも、本音を打ち明けることもない。

 そうして人の顔色を気にするあまり、いつからか、自我を失い、空っぽになったこの心すらも、誰のものか分からなくなってしまった。




 薄暗いリビングで一人、朝ご飯を済ませる。


 温めずに飲んだ味噌汁は、味が薄く冷たかった。


 洗面所で歯を磨き、ふと鏡に映った自分の顔を見ると、ひどく疲れきったような表情をしていた。


 そして部屋に戻り、壁にかけてある制服に手を伸ばした。


 高校二年生になった今でも、恋人はおろか、友達すらまともにできずにいる。


 淡々と過ぎる忙しない毎日を、褒めて欲しいわけでも、慰めて欲しいわけでもない。

 ただ、このどこか寂しい感情を、世界の誰も知らないのだと俯瞰すると、時々どうしようもなく、虚しい気持ちになる。


 どこにいても息が詰まるようで、まるで自分がここに生きていることすらも、忘れてしまいそうになる。


 そんな私のつまらない一日が、今日も始まるのだ。


 玄関の重い扉を開くと、眩しい朝日が差し込んできた。

 気分は優れないというのに、空はどこまでも澄んでいる。


 青く染まる青春の空は、まるで私には似合わない。


 このまま味気ない人生を歩み続け、いつの間にか大人になって行くのだろうか。

 その重い足を引き摺るように、最寄りの駅へと向かった。




 二番線ホームにいつもの電車が到着した。


 手前の空いている席へ重い腰を下ろす。

 いつもなら単語帳を開いて勉強をしたりするのだが、今日は何もする気が起きず、ただ流れていく景色を虚な目で眺めていた。


 私の住む街は比較的都会の方だ。

 パラパラ漫画のように、色んな高さの建物が右から左へと勢いよく流れていく。


 代わり映えのない景色に、瞼が降りようとした時、遠くのあるものが視界に入った。


 彩のないビルや家が並ぶその奥に、緑の連なる山々に、雲から一筋の光が降り注いでいた。


 まるでこの世のものとは思えない、たったひと枠のキャンバスで微細に輝く光景を見て、一瞬でその他の感情が全て消え去るような、恍惚状態に陥った。


 その景色に吸い込まれるように、気が付けば、降りるはずのいつもの駅は通り過ぎていた。


 その場所へ行ってみたいという好奇心が、突然私を襲う。

 その先に知らない世界があるような、そこへ行けば何かが変わるような、そんな気がしてならなかった。


 歩んできた線路を逸脱するように、遣る瀬無い現実から逃避するように。

 列車は私を、朝靄の向こう側へと連れて行った。




 スマートフォンのマップアプリを開くと、現在地は県境の手前くらいだった。


 初めて学校をサボってしまった。


 罪悪感を抱きながらも改札を通り抜けた先は、何にもないただの田舎だった。

 人気はなく、一車線しかない道路を、猛スピードで車が駆け抜けて行く。

 少し上を見上げると、先ほどまでの神々しさは感じられなかったが、確かに電車の窓から見た山が、大きく存在していた。


 山に入る道を探そうと、麓の方へと歩き出した。


 歩く途中に見える、人の住んでいなさそうな家や、手入れのされていない畑は、この街を廃墟のように物語る。

 あまりの静けさに、まるで世界に一人取り残されたような、寂しさを覚えた。


 それでも、見るもの全てが新鮮で、私の目は輝いていた。


 少し歩くと、山に入れそうな道を見つけた。


 昼過ぎの太陽がその生い茂る木々の間から、柔らかく差し込んでいる。


 まるでそこは新世界への入り口だった。


 山道は舗装されていて、風に揺られて響く葉音や、微かに聞こえる川のせせらぎが、妙に心地よい。


 それから長い間道を歩き続けた。


 山頂に着く気配は全くなく、人も通らない。


 いったいどのくらいまできたのだろうか。

 自分でも、何をしているのかわからなくなってきたが、ここまできたからには、その先の景色をこの目で見てみたいと、ただその一心で、不安になりながらも、己を鼓舞して前へ進む。


 しかし、急な坂道のカーブを曲がった先を見て、足が止まった。


 その先はとても薄暗く、それまで見ていた景色とはまるで違う、不気味で奇妙な雰囲気を纏っていた。


 その時それまで抑えていた単純な感情が、ついに溢れ出した。


 怖い。


 私の足はすくみ、その先へ進む事はできなかった。


 来た道をスマートフォンのライトで照らしながら戻る。

 夕日が沈みかけているのか、あたりは薄暗くなり初めていた。


 麓まで出ると、行き交う車のライトが、無常にも目を眩ませる。


 ふと後ろを振り返ると、暗い山が私の背後に立ちはだかっていた。




 駅につき、一安心したように改札を通った。


 電車が来るのを待ちながら、スマートフォンのロック画面の通知を見た。


 メッセージは〇件。


 今日のことを正直に話せば、きっと母を心配させてしまうだろう。


 なぜ突然そのような行動を起こしてしまったのか、わからない。


 どこか遠くへ行ってしまいたかったのだろうか。

 ただ何もない、静かな場所へ行きたかったのだろうか。


 軽やかなアナウンスとメロディが、ホームに響く。

 暗闇の中、ヘッドライトを光らせた電車が、ゆっくり到着した。


 夢みたいな出来事に終止符を打つかのように、動作音を響かせて扉が閉まる。

 電車の窓を見ると、映ったのはあの美しい景色ではなく、私の顔だった。


 何かを変えるには大きな勇気が必要なのか。

 それとも、その始まりは、些細な出来事や動機に過ぎないのか。


 劇的な変化でなくとも、日々が少しでも色づけば、きっとそれだけでいいのに。


 線路の上を走る列車が、私をまたあの日常へと引き戻す。


 それでも、そっと当てた胸の鼓動は、まだ治っていなかった。

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