白昼夢
宵
「海を解く」(3月9日)
二月。
冬もいよいよ寒波を迎えた。
冷たい風が、乾燥した肌に当たる。
首元までしっかりとファスナーを閉め、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、誰もいない浜辺を、一人歩いていた。
少し荒だった波が、打ち寄せては引いて行くのを繰り返す。
その日は天気がよく、昼過ぎの太陽が水面に反射して、煌めいていた。
嫌気がさすほど輝くその光景を見て、思わず足を止める。
僕は目を閉じて、波の音に耳を澄ました。
後部座席にもたれながら、流れていく木々を車窓から眺める。
葉は落ちて、木々の間から差し込んでくる太陽が、やけに眩しい。
「洵一、聞いてるの?」
助手席から母が、後ろを振り返りながら聞く。
僕はつけていたイヤフォンを気怠そうに外した。
「もう直ぐで着くから、降りる準備してなさい。あと、お昼ご飯は、おじいちゃんがカルボナーラ作ってくれてるって。向こうに着いたら、ちゃんとみんなに挨拶するのよ」
「うん」
年末年始はいつも決まって、父方の親戚が、祖父の家に集まることになっている。
正直に言って、この集まりは苦手だ。
子供がみんな同じような年齢だと、当然話に上がるのはそれぞれの学業のことだ。
僕の従兄弟はみんな成績がいい。
期末テストの学年順位が上位だったり、某有名大学を受験し合格したり、将来の夢は医者になることだったり。
それに比べて僕は、成績はいつも中の下で、入学した大学もそれほど有名ではないし、周りは就職活動を始めている中で、やりたいことがなければ、なりたいものもないという、現実から逃避したような言い訳ばかり並べて、ただなんとなく毎日を過ごしているだけだ。
そんな日常に後ろめたさを感じてはいるが、目の前で、自分よりも優れた人間が誉められているのを見ると、その感情に拍車がかかるようで、苦手なのだ。
もうすぐで今年も終わる。
歳を取るにつれて、一年が過ぎるのを早く感じるようになった。
他人事のように流れる毎日を、ただなんとなく、前に習うように、先が見えない靄の中、敷かれたレールの上を歩いている気分だ。
外したイヤフォンを再び耳につける。
抑揚の激しいサウンドと歌詞が、耳を通り抜けていった。
目的地に着き、父が使い古したメガネを押し上げながら、無言でエンジンを切る。
僕は車から降り、少し待って、両親の後に隠れるようにして家に入った。
居間につくと、もうすでに集まっている人たちで、その場は盛り上がっていた。
到着した僕らに気づくと、みんなが駆け寄ってきた。
「洵一くん! 元気だった?」
叔母さんが僕の肩をがっしりと掴みながら、元気よく聞く。
「あ、はい。お久しぶりです」
毎年会っているとはいえど、一年も時間が空いているため、少し気恥ずかしくなりながら返事を返す。
久しぶりに会うと、いろんな変化が見られる。
僕よりも年下の男の子が、僕の身長を抜かしていたり、叔父さんの髪の生え際が、一年前よりも後退していたり。
一通り挨拶を済ませたところで、そこに祖父がいないことに気づき、台所の方へと、一人で向かった。
扉を開くと、あのカルボナーラの匂いが、僕を包んだ。
少し背中を丸めながら、料理をする祖父の姿が目に入り、僕は驚かせないように、開いた扉にコンコンと音を立ててから、声をかけた。
「じいちゃん、久しぶり」
祖父がゆっくりとこちらを振り返り、僕の顔を見て、思い出したように返事をした。
「ああ、来たんか。ちょっと今料理してるからね・・・元気だったか?」
その様子を見て、少し笑いながら僕も返した。
「元気だよ、何か手伝おうか」
一年ぶりに話す祖父は、少し弱っているように見えた。
一人で人数分の食事を作るのは、大変だろう。
それでもみんなが集まると、こうしていつも、丁寧にもてなしてくれる祖父は、料理をすることが好きらしい。台所の横にある本棚には、レシピをメモしたノートが、ずらりと並んでいる。
出来上がったカルボナーラが、食卓の方へと運ばれていく。
僕は小さくいただきますと呟き、フォークに巻いたパスタを頬張った。
そしていつもの、一年の成果発表会の時間がやってくる。
皆それぞれ今年頑張ったことや、来年の目標などを自慢げに話す隣で、僕は窓から見える、庭の木を見つめていた。
食事が済み、居間の端の方でスマートフォンを触っていると、祖父が僕のことを手で招いた。
廊下の突き当たりの祖父の部屋へ入り、扉を閉めると、さっきまでの賑やかさが一瞬にして消え、そこは祖父と僕だけの、二人きりの空間へと変わった。
壁には昔の頃の写真がたくさん貼られていて、机にはいつの世代のものかわからない、使い古されたノートパソコンと、付箋がぎっしりと付けられたノートや本が、山積みにされていた。
「洵一は、やりたいことあるんか」
ふと祖父が僕にそう聞いた。僕はその問いに対し、返す言葉を探した。
少し間をおいて、祖父がふと口を開いた。
「人には、三つの人生があってな。第一の人生は、自分のために。第二の人生は、子供のために。第三の人生は、孫のために、生きる」
その言葉を僕は頭で処理しながら、心に留めるように静かに聞いていた。
「人はみんな、最後は死ぬんやから、やりたいことがあってもなくても、今は自分のために生きたらええ。じいちゃんはもう長くないからね、やりたいこともないけど。戦争だって経験した、裕福な家庭じゃなかったから、生きていくために、苦しいことも辛いことも、いっぱい経験したね。けれど子にも孫にも恵まれて、いい人生だったと思うね」
僕は満足そうに語る祖父の顔を、言葉を返すでもなく、ただ見つめていた。
祖父は、弱々しくも、幸せそうな微笑みを、僕に向けていた。
一週間後、祖父は肺炎を起こし、病院へと運ばれた。
入院中に、一度だけ父を通してかかってきたビデオ通話では、ベッドに辛そうに横たわる祖父を見て、気が動転してしまい、何を話したのか、ほとんど覚えていない。
そしてその数日後に、祖父は亡くなった。
その訃報に実感が湧かないまま、流れるように葬式の日が決まり、僕は大学の入学式の時に着た、黒のスーツを着て、祖父の葬式に参加した。
棺には、顔の変わり果てた祖父が眠っていた。
僕の知る祖父の面影はどこにもなく、そっと触れた肌は柔らかく、とても冷たかった。
悲しいとは思わなかった。
祖父が言ったように、人はいつか死ぬのだから。
そう思いながらふと横を見ると、父が泣いていた。
いつもは感情を表に出さないような人が、鼻まで真っ赤にして、上を向いて静かに泣いていた。
その表情を見て、少し我慢していた涙が、じわっと湧き出てくるのを感じた。
祖父と過ごした時間は多くない。
僕が祖父の家に行くといつも決まって、カルボナーラを作ってくれた。少し濃い、あの味が僕は好きだった。
なんでもないような、そんな小さな思い出が、今はもういない、祖父と僕を繋いでいるような気がした。
生きるってそういうことなんだろうか。
鼻を啜る音が響きわたる中で、僕も同じように少し涙しながら、思いを馳せていた。
目を開いても変わらず、波は打ち寄せては引いて行くのを繰り返している。
人は生きて、そして死ぬ。
それをまだ僕は、分かっているようできっと分かっていない。
祖父が残した最後の言葉に、静かに耳を澄ます。
言葉の意味を解いていくように。
どこまでも青く染まる、水平線の遠くを見つめて。
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