第2話:最後のプリン争奪戦
カフェのショーケースに、ただ一つだけ残ったプリンがあった。それは、表面が滑らかで、琥珀色のカラメルソースが美しく輝いている。プリン全体から放たれる、ほのかなバニラの香りが、ガラス越しに五感を刺激する。その日のカフェの空気を、そのプリンが支配していた。
「あ!あれ、最後の一個だ!」
鯰尾藤四郎がショーケースに張り付くようにして、声を弾ませた。彼女の瞳はプリンの輝きを反射し、まるで宝物を見つけたかのようにキラキラと輝いている。彼女の脳内では、すでにプリンを巡る壮大な戦いの序章が始まっていた。このプリンを、僕が食べる運命なんだ!この戦いに勝てば、僕は伝説の「プリンマスター」になれるかもしれない!
隣に立つ骨喰藤四郎もまた、静かにプリンを見つめていた。その表情はクールだが、瞳の奥に宿る熱は、鯰尾に決して劣らない。彼女はプリンの硬さを感じ取っていた。この完璧な硬さは、私の人生そのもの。決して揺るがない、私の存在証明だ。このプリンを食べることが、過去の記憶を失った私の、唯一の必然性なのだ。
「…私が、先に、見つけた」
骨喰の声は静かだったが、そこには譲れないという固い意志がこもっていた。
「いやいや、僕が見つけたんだって!プリンは早い者勝ちでしょ!」
二人の間に火花が散り始めたその時、少し離れた席に座っていた大倶利伽羅が、無言で二人を見つめていた。彼はただ、コーヒーを一口飲むだけで、この茶番劇には関わる気がないようだった。しかし、彼の内心では、二人のくだらない議論に巻き込まれることへの苛立ちが、マグマのように煮えたぎっていた。馴れ合いはしない。それが俺の信条だ。だが、この二人の騒ぎは、すでに「馴れ合い」の範疇を超えている。
二人の戦いは、プリンを巡る哲学的な議論から始まった。
「いいか、骨喰!プリンは柔らかい方が優れている!口の中でとろけて消える儚さこそが、真の美なんだ!」
「違う、鯰尾。硬いプリンこそが至高。確固たる意志を持ち、決して形を変えない。これこそが、プリンの流派における最高の美学だ!」
そして、二人の思考が暴走した結果、真剣な剣戟がカフェのど真ん中で始まった。
ガキンッ!
鯰尾が放った斬撃を、骨喰が冷静に受け止める。二人の動きは、見る者すべてを驚かせるほどに流麗だった。カフェのテーブルを飛び越え、椅子を蹴り飛ばしながら、互いの刀を交わす。ショーケースに傷一つつけずに、その周りを高速で斬り合いながら旋回する。
チィン、チィン、チィン……
刀と刀がぶつかり合う、甲高い金属音がカフェに鳴り響く。その音は、まるで二人のプリンに対する情熱を増幅させるBGMのようだった。客たちは悲鳴を上げて逃げ惑うが、二人の戦闘は止まらない。鯰尾の刀が放つ、予測不能な連続攻撃。カフェの床を滑るように移動し、骨喰の死角から何度も斬りかかる。
「ここだ!」
鯰尾が、ショーケースの影から飛び出し、不意打ちをかける。しかし、骨喰はすでにその動きを予測し、完璧なカウンターを放った。骨喰の刀は、正確無比な一撃で鯰尾の攻撃を弾き、まるで氷の彫刻を削るかのように、カフェのテーブルを完璧に両断する。木材が砕け散る乾いた音と、飛び散る木片の匂いが、戦いの緊迫感をさらに高める。
ドガァン!
二人の斬撃がぶつかり合った衝撃で、カフェの照明が激しく明滅する。勝敗が決まるのは、もう時間の問題だった。鯰尾は、目の前に勝利の女神であるプリンの幻影を見ていた。骨喰は、この一撃で過去の自分を肯定できると確信していた。
その時。
「…馴れ合いはしないが、騒ぎに巻き込まれるのは不本意だ」
静かにコーヒーを飲んでいた大倶利伽羅が、ゆっくりと立ち上がった。彼の視線は、もはや戦っている二人にはなく、ショーケースのプリンに向けられていた。彼の脳内では、このくだらない喧嘩を終わらせるための「最適解」が導き出されていた。
彼は、二人の剣戟の合間を縫うように、まるで幻のように移動する。
そして、ショーケースに手を伸ばすと、プリンの隣に添えられていた、小さなチェリーを掴んだ。
パクリ。
大倶利伽羅は、静かにチェリーを口に放り込む。
その瞬間、二人の動きがピタリと止まった。刀のぶつかり合う音が消え、静寂が訪れる。
「「…チェリー!!!」」
二人の声が重なる。まるで、神話が崩壊したかのような悲鳴だった。鯰尾の頭の中では、チェリーが「戦勝の証」として輝いていたはずの幻影が、大倶利伽羅の口の中で消えていく。骨喰の頭の中では、チェリーが「私の過去を肯定する最後のピース」となるはずだったのに。
大倶利伽羅は、チェリーを食べた口元を拭い、二人に視線を向けた。
「…あ、ごめん。食べちゃった」
彼の言葉に、二人は同時に「今かよ!」と叫んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます