第8話



 祁山きざんの陣には李典りてん楽進がくしんもいた。


 賈詡かくから詳細を聞いた二人は、幕の上がった幕舎の中で椅子に座り、ジッとしている陸議りくぎを遠巻きに見ている。


「賈詡将軍は、陸議殿がわざと徐庶じょしょ殿を逃がしたと思われるのですか? 何かの間違いなのでは……」


「俺もそう思います。大体そんなことする理由あります? 

 あの人司馬仲達しばちゅうたつが大した実績もないのに自分の副官に異例の抜擢した人ですよ。

 徐庶殿は悪い奴じゃないのは俺も認めるけど、だからといって徐庶殿の為に司馬仲達の怒りを買って将来を台無しにするとは思えません」


「俺だってそう思うよ。俺も別に徐庶を陸議の部屋に放り込んだのはあの二人が仲良しだからじゃないしな。陸議君なら謹慎させられた徐庶の世話を律儀に見てくれるだろうと思って投げやりに放り込んだだけだ。

 彼は誰にでも親切な子だからさ。徐庶にだけ優しいわけじゃない」


「本当に山中で見失ったのでは? 涼州の山は深い。我々も夜間よく仲間を見失います」


「でも見失っても帰ってくるだろ?」

「それは、みんな祁山きざんの陣の場所は知っていますから。……あ」


 賈詡が腕を組む。


「そうなんだよ。例え山中で見失っても、普通みんなそれぞれ陣に帰ろうとするだろ。

 特に天水てんすい砦は平原の東だ。例え山中で見失っても山を下りてくれば方向は分かる」


「だとすると、徐庶殿が戻らないってことは」


「――確実に逃げたってことだ。

 普通は……というか俺なら、上官に弁明するにしてもそう言うな。

 必死の追撃の途中だ。仲間を見失うこともあるだろうさ。

 だが子供じゃないんだから戻って来るだろうと俺なら放っておく。

 あんな自分のせいでそうなったなんて言わないでいい。

 徐庶なんか前から蜀に傾倒していた。これ幸いと蜀に逃げたって誰も驚かん」


「しかし陸議殿は自分が監視しておくから牢から出す許可を司馬懿しばい殿に頂いたのなら、徐庶殿を見失ったことを自分の責任とするのは道理ではあります。

 徐庶殿がそうしたんだ、などというそのような投げやりな誤魔化しは司馬懿殿には通用しない」


「そういうことだ。

 つまり陸議は最初から自分の退路を断ってる。

 徐庶がいなくなろうが徐庶が戻ろうが、この件で陸議の得になることはなにも無い。

 なのに何故徐庶に助力した?」


 賈詡は抵抗もせず、大人しく命令を待っている陸議の横顔を見つめた。


(もっと言うと、司馬仲達もそれは分かっていたはずだ。

 お前の利になることはないと、自分の副官がそんなことを言って来たら普通は叱りつけて相手にしないはず。何故あいつは陸議を出して来たんだ?)


 分からない。

 司馬懿の利にも全くならないことだ。

 特に陸議は仮に徐庶に同情していたとして、司馬懿が徐庶にそこまでの情けを掛けるとは思わなかった。

 

 何かがおかしい。

 なにも答えが見えてこない。

 

(一体誰が誰を庇ってるんだ?)


 賈詡は歩き出した。

 幕舎に入ると陸議はすぐに立ち上がってから膝をついて、賈詡に片手でも拱手きょうしゅした。


「……うん、そうか。

 確かに上官に約定したことを果たさないことは、軍では処罰対象になるがな」


 賈詡は陸議の側にしゃがみ込む。

 彼の右肩に軽く手を乗せた。


 そういえば、陸議は左腕も動かせる状況ではないのだ。それもあった。

 快癒方向に向かっていた陸議が左腕の痛みで軍医を夜中に起こしたのは昨夜のことだったはずだ。

 ちょっと痛いだけで医者を呼ぶような男ではないので、相当どうにもならない痛みだったのだろう。郭嘉かくかもそう言って少し気にしていた。

 場合によっては、彼は一度長安ちょうあんに戻して治療に専念してもいいのでは、そういう話もしていたほどだ。


 司馬懿がそんな状態の副官に、徐庶を出して馬岱ばたいを探しに行けなどと命じるはずがない。

 やはり、陸議が主導で出て来たのだ。


「陸議。お前のその表情からして、全てを覚悟でやったんだろうが。

 司馬仲達しばちゅうたつをあまり甘く見るな。

 確かにお前を評価しているが、軍においての失態は平時より遥かに重い罰則を受ける。

 俺が危惧するのは。

 司馬仲達は軍の行軍を左右するような事態においてお前が果敢に挑んだことが、果たされずともお前を容易く斬ったりしないと思うが。

 あまりに下らないことにお前が気を取られ起こした些細な失態には、激怒する可能性がある」


『些細な失態』と敢えて賈詡は言った。

 徐庶も、馬岱ばたいも、些細なことなのだ。


 確かに賈詡も馬岱はなかなか使える騎馬将かもしれないと思って、とにかく付近をまだ少人数だが探させている。

 出来れば味方に引き入れたいという気持ちはあるが、そう出来なければそれはそれでいいのだ。

 この世において諦められるものは、なんであれ些細なことだ。


「司馬仲達がこの先お前に期待しているものは多岐に渡る。

 ここで懲罰を受けて副官を解任され一兵卒になるより、そういうものをこなして恩義ある司馬仲達に報いる方が、遥かに楽しい未来だと思わんか」


 陸議は拱手した姿のまま俯いている。


「――お前の意志で徐庶を牢から出したなら、徐庶はお前より余程したたかだぞ。

 あいつの心などとうに蜀や劉備りゅうびに向いていて、お前に微塵も心を向けていない。

 まんまと魏から逃げおおせて望みを叶えた。

 確証は無いが、恐らく馬岱ばたい馬超ばちょうとも合流して蜀に向かってるはずだ。

 お前は利用されたんだよ。

 善意や良心を逆さに取られた。

 お前の失態は徐庶を逃がしたことじゃない。

 奴につけ込まれたことだ」


「賈詡将軍」


「なんだ」


「徐庶殿は涼州遠征が終われば許しを頂いて、魏軍を去る決意をなさっておいででした。

 魏からも去り、どこの軍にも関わらずこれからを生きていくおつもりだと。

 私はそう語ったあの方の心は真実だったと思っています。

 ですから黄巌こうがん殿が魏軍と交戦することは双方にとって利が無いと思い、探しに出たのです。徐庶殿なら、必ず黄巌殿を説得出来る間柄だと考えました。

 結果、徐庶殿を見失い、あの方が戻らなかったというのなら、間違いなく全てを見誤った私の咎です。どのような裁きもお受けします」


「陸議。俺はお前のことは嫌いではないし、優秀だと買ってもいる。

 だが軍の処罰を恐れないような愚かな奴はこの世で一番嫌いだ。

 それは郭嘉かくかのことで、お前はよく感じ取っているだろうが」


 陸議は小さく頷いた。

 深く、頭を下げる。


「そうか。では俺はお前をこのまま天水てんすい砦に移送して、総大将として徐庶を牢から出し、お前と共に追撃に向かわせた司馬仲達しばちゅうたつの責めを問う。

 そうすれば司馬仲達であろうと何らかの処罰は受けねばならん。

 総大将という責務、曹丕そうひ殿下との信頼関係、様々な理由を鑑みて『こんなこと』で司馬仲達は処罰を受ける馬鹿じゃない。

 必ずお前の失態として責めはお前に行くぞ。

 投獄は免れんし、軍規違反が認められれば肉体的にも処罰が与えられる。

 だがお前が今、徐庶に陥れられたことを認めるなら、司馬仲達がお前を処罰しようとしたら、俺が庇ってやる」


「賈詡将軍のご温情に、深く感謝致します。

 ですが私は司馬懿しばい殿の副官とはいえ魏軍の一兵に過ぎません。

 過分な温情を頂くことこそ、軍規を軽んじる行為だと存じます。

 此度のことは全てにおいて私の油断が招いた失態。

 どうぞ平時の差配にて、御処分を」


「お前は俺や司馬仲達を謀ってる。

 平時の差配にはならんから忠告をしてやってるんだ陸議」


 陸議は顔を上げると側に置いていた美しい二本の双剣を掴んで、揃えて賈詡の方へと差し出して来た。

 当初賈詡は知らなかったが、話では【干将莫耶かんしょうばくや】というこれは名刀で、非常に価値ある宝剣だという。

 元々は曹丕の戴冠式で使われる候補にもなって長安ちょうあんに持ち込まれた剣であり、それを曹丕の許可を得て司馬懿が競り落とし、寵愛を与える女の、弟である陸議に与えたと聞いていた。


 言わばこの剣こそ司馬懿からの『過分な温情の頂き』の象徴である。

 陸議がこの剣を自分に預けることは、彼の覚悟の証としては筋が通っていた。

 賈詡は深く溜息をつき、その二枚の剣を手に取ると立ち上がる。


「分かった。お前がそこまでの覚悟なら、もうどうしようもない。

 俺も容赦なくやる。厳しい処分になるぞ。陸議。覚悟しておけ」



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