第3話
すっかり日が落ちた。
山岳地帯に辿り着いた
途中までは騎乗したまま登って来れたが険しくなると、さすがに暗さもあり無理だった。
徐庶はあまり気にしないようにはしていたが、時折後ろから付いて来る陸議を振り返った。
片腕で馬に乗り、全力で飛ばして来るだけでも十分驚きだが、片腕の使えない陸議は右手で馬を引き、同じ手に杖代わりの剣を一本持って、容赦なく斜面を上がる徐庶に付いてきた。
暗がりであまり顔も見えないが、苦しいだろうに黙って付いて来る。
本当に、意志の強い青年だった。
徐庶は陸議への意識を断ち切る。
余計な雑念に囚われている場合ではないのだ。
追っ手がいないか気にしていなければならないし、
加えてこの山中で迷わず、最も北に位置すると馬岱から聞いていた狩猟小屋に辿り着くために、徐庶と言えども集中しなければならなかった。
(方向は間違ってはないと思うんだが)
馬岱がそこにいるのかどうかは分からない。
辿り着けていればまだいいのだ。少しでも休んで、傷の手当が出来ていれば。
どこかで行き倒れて追い越してしまっており、それを賈詡に見つけられていたら一番最悪だ。
迷っていても仕方ない。
徐庶は友の騎乗能力と体力、そして山岳地帯の移動能力の高さに賭けた。
徐庶も単独で移動することには慣れていたが、山での移動力は馬岱に及ばない。
この辺りに小屋があったはずだけれどと思いながら暗闇の斜面を上がっていると、突然、何かとんでもない大きな動物が、頭上から飛びかかって来た。
「!」
思わず身を退けようとして、後方にいた陸議の身体にぶつかり、二人で仲良く斜面を転がりかけた。
同時に剣を地に突き立てて、陸議の背が、木の幹に当たって辛うじて滑落を免れた。
「ごっ、ごめん!」
慌てて徐庶は振り返った。
陸議は腕を押さえて歯を食いしばっていたが、首を振る。
「大丈夫です、腕は挟まなかったので」
かなり強く当たってしまったので徐庶は心配したが、陸議は大丈夫です、ともう一度頷いた。
「それより……今、何かが」
「いや、なんか熊みたいに大きい生き物が突然……わっ!」
「徐庶さん!」
いきなり、徐庶の肩に大きな動物が噛みついたように見えて一瞬陸議は驚いたが、よく見ると熊のように見えたのは大きな馬で、徐庶の上着の肩口を銜えたらしかった。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ! またこの前の……」
長身の徐庶が斜面を引きずられて上がっていく。
「
上の方から声が飛んだ。
姿を現わしたのは
「馬超将軍!」
陸議は息を飲む。
(この人が……)
馬と揃えたような栗色の髪に、まさに翡翠のような緑がかった明るい瞳をした青年だった。
すぐに、後ろから姿を現わす。
「
「
徐庶が手を差し出すと、馬岱が木を支えに下りて来た。
再会した友人二人が抱き合う。
「心配した……」
「なにも言わずに出て来て、ごめん。元直。
傷を負ってなかったら、いつでも逃げれると思って無茶はしなかったんだけど、先に周囲を固められて逃げられなくなったら嫌だったから。
でも俺の正体が知られてることを教えてくれて、助かったよ。ありがとう」
「
陸議がそう言うと、馬岱は徐庶を見た。
「
「黄巌さん。徐庶さんは賈詡将軍が追っ手を差し向けた時、貴方が逃げた以上、これ以上は魏軍に協力出来ないという意志表示であり、追うべきではないと進言して牢に入れられたんです」
「えっ!」
「陸議殿が
「そうか……君にこれ以上迷惑を掛けられないと思って出て来たけど、もう迷惑は掛けてしまってたわけだな。ごめん、元直」
徐庶は首を振った。
「いいんだ。君はこれ以上魏軍に関わるべきじゃない」
徐庶が馬超を見る。
「馬超将軍、
「俺と共に
徐庶の表情が明るく輝いたのを、陸議は見ていた。
「そうか。決めたんだね。
……いや、本当はずっと前からそうしたいって決まってた。
君がずっと共にいたい人がいるからって言ってたのは、馬超将軍のことなんだろう」
態度からすると図星なのだろう。
好きな女性のことだと随分勘違いしてしまっていた。
「俺達を逃がすと、貴方が魏軍から懲罰を受けるのではないのか」
「そうなら、受けます。貴方と風雅は共にいた方がいい。
俺の事は気にしないで下さい。馬超将軍。貴方がいなければ俺が風雅を見つけて成都に連れて行くつもりでしたが、貴方にここで彼を託せるなら俺は安心です。
追っ手には貴方がたは見失ったと言うので心配しないで下さい」
徐庶は言って、馬岱をもう一度抱き寄せた。
「無事に成都に辿り着いてくれ。君の幸せを祈ってる。またどこかで会おう」
馬岱は友の身体を抱きしめ返してから、顔を上げた。
「
馬岱はこれから蜀に行く。
そうすれば、いずれの再会は戦場になる可能性がある。
心優しい友と戦場で再会するのだけは嫌だった。
しかし徐庶は小さく笑った。
「いや。魏軍は近いうちに去るつもりだ。魏も出るよ。
今回の遠征で俺の軍師としての能力も、ある程度司馬懿殿あたりは見定めただろう。
賈詡殿や
前に話しただろ。【
あそこに戻って、軍とは関わらず生きていくつもりだ」
馬岱は一瞬押し黙ったが、握りしめた徐庶の手に力を込めた。
「なら……俺達と
軍に関わらない生活がしたいなら、そうすればいい。
でも蜀の方が君の想う理想に合ってる生き方が出来るはずだ。
魏軍に留まればいくら君が除隊を望んでも、望み通りにならないことだってある。
今なら一緒に成都に行ける」
馬超も頷いた。
「貴方のことは
徐庶殿、
「いや……でも俺は……」
「どうせ魏軍をいずれ辞めると決まってるなら迷うな!
俺達と蜀に行こう!
従軍途中で行方知れずになれば、魏軍だって君の母上に手は出さないはずだ」
「行方知れずって言っても、」
徐庶は思わず、後ろの陸議を見ていた。
三人の遣り取りを見ていた陸議は、徐庶と目が合った一瞬で彼の心を見抜いた。
はっきりと、成都に来いと言われて心が揺れている。
徐庶の心にはやはり、まだ劉備がいるのだ。
心は決まっているのに。
何故この人は心を揺らすのか。
(仕方のない人だ)
陸議は小さく苦笑した。
「私は何も聞いていませんし、見てもいません。」
彼はそう言うと迷わず背を向けて、片腕で剣を杖のように使い、斜面を器用に下りていった。
「陸議殿!」
徐庶は驚いて呼んだが陸議は振り返らず、すぐに暗闇の向こうに消えた。
「
あの日ねじ曲がった自分の運命を戻すならば今しかないことは、徐庶にも分かった。
「彼は君の願いを知ってる」
山中で徐庶ごと馬岱も見失ったと言うつもりだろう。
勿論司馬懿ならば、陸議が徐庶を逃がしたことは見抜くはずだ。
涼州遠征が始まる前までは何の縁もゆかりもない人だったのに。
徐庶の願いを察し、見逃してくれた。
「一緒に行こう、元直」
徐庶はゆっくりと頷いた。
それを見た友が喜んで、笑ってくれる。
(俺の願いは叶った)
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