ブラックコーヒーのままで
@627h
第1話 砂糖の記憶
「真由、私退院したら、桜が見たい。私、春が好きだし、春といえば桜かなぁって。もう冬も終わるし、きっとすぐ見れるよね」
何もかもが白い病室のベットの上で、香奈はそう言って微笑んでいた。窓の外の溶け始めた雪を見て、春まで後どれくらいだろうね、と見舞いに来た私に毎回話していた。
___春が来る前に、病死するとも知らずに。
「___っ!」
何かに急かされるかのようにして、意識が覚醒する。嫌な夢を見た。
起きたばかりだというのに荒い呼吸を落ち着けて、ぼんやりと夢の内容を反芻する。
香奈が私に話しかけてきていた。余命も残り僅かな頃にそんな会話をした気がする。確信を得たくて記憶を呼び起こすけれど、どれも輪郭がぼやけて曖昧なものになっていた。
あれほど忘れたくないと願った記憶も、こうしてぼやけていくのだから、時間というのは恐ろしい。
「…はは」
乾いた笑いが溢れて、喉が渇いてたことに気がつく。香奈の夢を見た日は、決まって喉が渇いている。私の体が、無意識に香奈と会う準備でもしているのだろうか。
起きたばかりで気怠さがまとわりつく体に鞭を打って、台所へ向かう。戸棚から香奈の愛用していたカップとソーサーを出して、メーカーにセットする。
カップに真っ黒な液体を注ぐそれは、香奈にプレゼントしたものだった。彼女はコーヒーが好きだったから、毎日のように使っていた。
私はコーヒーが苦手だったから、一緒には飲めなかった。私は苦味の中の深さが理解できない子供舌だと、いつか香奈が言っていたような気がする。
やがてメーカーが音を鳴らして、コーヒーが出来上がった事を知らせてくる。ほんのり熱いそれをソーサーに乗せて、机まで運んだ。
机の上に置いた、温かいコーヒーに手を伸ばす。砂糖もミルクも入っていないそれは、私にとってただ苦いだけの液体だ。
私の服と同じ、真っ白なソーサーとカップがぶつかり合って、カチャカチャと音を立てる。
コーヒーの苦い香りが鼻先を掠めて、湯気に混じって消えていく。
一口目。ゆっくりとカップを傾けて、真っ黒で苦いだけの液体が舌に触れて、口の中を満たしていく。
コーヒーが口の中を満たしている間だけ、私は幻影を見ることができる。
ゆらゆらと立ち上る湯気に黒が混じったかと思うと、それはみるみる間に面積を増やして、セミロングの髪に変わっていく。
「真由、愛してるよ」
目の前の幻影は、香奈の姿で、香奈の声で私に甘ったるい愛を囁く。
香奈はストレートに愛を伝える人だった。女同士の恋人という関係への偏見も意に介さず、好きなものを好きと言える、私とは正反対の人。
彼女の愛の言葉に、私はどれほど同じ言葉を返せていたのだろうか。片手で数えられる程度だったような気がする。
もっと、私が香奈だけを見ていられたら。自分に正直であれたなら。彼女を幸せにできていたのだろうか。
口を満たす強い苦味と同じものが、胸の中に広がっていく。もうどうしようもない事だと、目をつぶって苦味を飲み込んでいく。
喉元を過ぎ去ったコーヒーの深い香りが、口から直接鼻に届く。
なんだか泣き出したくなるのを抑えて、二口目に手を伸ばした。
カップの湯気の向こうに、香奈が揺らめきながら現れる。手には紙袋を持っていて、鼻歌を歌いながらそれをこちらに差し出していた。
「真由、アップルパイ好きだったよね。駅前のパン屋で買ってきたよ、食べようよ」
香奈は、私の好きなものをよく分かっていた。好きなものだけじゃない。嫌な事も喜ぶ事も、日常の中の些細な事を覚えていてくれた。
口を満たすコーヒーが舌に酸味と苦みで殴り掛かってくる。あー、苦い。これを砂糖なしで飲み干すのはどうにも辛い。
香奈は、どうしてこれを好んで飲んでいたんだろうか。聞いておけばよかった。
思えば、香奈は私について詳しかったけれど、私は香奈をよく知らなかった。好きな食べ物、されたら嫌な事。日常の中の些細なことすら、もう時間に流されて散り散りになってしまっている。
胸中の低く強い酸味から逃げるように、あるいは救いを求めるかのように、三口目に手を伸ばす。
現れた香奈の幻影が、髪を揺らして愛おしそうに私を見つめる。私はこの顔をよく覚えている。私に愛を伝える時の顔。私が、大好きだった顔。
「真由」
___何?
「私、真由と恋人でいられて幸せ。一緒に毎日を過ごせて、本当に幸せなの」
香奈の幻影が天使のように微笑んで、砂糖の塊のような言葉を告げる。甘い。この世の何よりも甘美なその言葉を、過去と併せてコーヒーと一緒に飲み込んでいく。
コーヒーが喉元を過ぎた時に、舌に届いたのは砂糖のような甘さだった。
香奈の幻影は、コーヒーを飲み込むと音もなく消えてしまう。広くなってしまった空間を眺めながら、私はそっと息を吐き出した。
「……私も、香奈と一緒にいられて幸せだった。本当に、幸せだったんだよ」
漸くコーヒーから解放された口で、伝える相手のいない愛の言葉を独り告げた。
「やっぱ私はブラックコーヒー、嫌いだな」
そう言いながらカップに手を伸ばすのは、きっと貴女の幻影に縋りたいから。どんなに苦くても、香奈の甘い言葉を思い出せば、飲み込めてしまうから。
苦いコーヒーが、口の中を満たしていく。香奈の幻影が、カップの向こうで微笑んでいる。
人は誰かを忘れる時、その人の声から忘れていくのだという。なら、この幻影が愛を囁く間は。私が香奈の声を、覚えている間は。
ただひたすらに苦い、ブラックコーヒーのままで。
それで、十分だ。
「ね、この先もずっと一緒にいようね。愛してるよ、真由」
段々ぼやけていく幻影が、愛を囁いた。
ブラックコーヒーのままで @627h
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます