第2話

玄関での儀式は、すでに俺と千世の間の新しい日常となっていた。だが、そのルールさえも、彼女の気まぐれ一つで容易く覆されることを、俺はこの日、思い知らされることになる。


その日の夕方、俺が部屋で待っていると、カチャリと鍵が開き、千世が帰ってきた。両手にはスーパーの買い物袋。そして、足元にはあの白くごついFILAのディスラプター。俺はいつものように、玄関のたたきに仰向けになろうと体を動かした。だが、千世はそれを手で制した。


「いい。今日は気分じゃない」


彼女はそう言うと、俺を無視して、靴を履いたままズカズカと部屋に上がり込んできた。当たり前のようにローテーブルの前に座り、買ってきた弁当を広げ始める。俺は玄関のたたきに取り残されたまま、その光景を呆然と見ていた。


「ポチ、いつまでそこにいるの。こっちに来なさい」


呼ばれて、俺は四つん這いで彼女の元へ這い寄る。彼女の足元に伏せると、醤油と生姜の香ばしい匂いが鼻をついた。

千世は汚れたディスラプターを履いたまま、平然とあぐらをかいて食事を始めた。この部屋は、もはや日本的な生活空間ではない。彼女という女王が君臨する、土足がルールの領土なのだ。


その時だった。千世が箸でつまんだ唐揚げが、ぽとり、と彼女のすぐ横のフローリングに落ちた。

「…あ」

千世はわざとらしく声を上げると、落ちた唐揚げをちらりと見た。そして、俺を見て、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。

彼女は座ったまま、右足のディスラプターで、床に落ちた唐揚げを、ぐしゃり、と容赦なく踏みつけた。体重をかけ、ぐり、ぐり、と数回こするようにつぶす。香ばしかったはずの唐揚げは、彼女の靴裏と床との間で無残な肉片となり、フローリングに油のシミを広げた。


千世はその足を上げ、靴裏を俺の目の前に突きつける。ギザギザのシャークソールの溝に、潰れた鶏肉と衣の欠片が、床のホコリと混じり合って無残にこびりついていた。

「ポ-チ。食べ物、粗末にしちゃダメでしょ」

彼女はそう言うと、俺が履いているズボンを、ディスラプターのつま先でつん、と突いた。

「…それ、邪魔。脱ぎなさい。下も全部」


命令は絶対だった。俺は羞恥に顔を焼きながら、その場で震える手でズボンと下着を脱ぎ捨てた。下半身を完全に露わにした無防備な姿で、再び彼女の前にひざまずく。


「よし。じゃあ、食べなさい」

俺は覚悟を決め、彼女の掲げる靴裏へと顔を近づけた。ザラリとしたゴムの感触。アスファルトの味。そして、潰れた唐揚げの冷たい油と、床のホコリが混じった、言葉にできない味が口の中に広がる。俺は犬のように舌を使い、ギザギザの溝の奥に入り込んだ肉片まで、必死に舐め取った。


俺がその屈辱的な食事に集中している、まさにその時だった。

千世の、唐揚げを踏んでいない方の左足が、すっと持ち上げられた。そして、そのごつく重いディスラプターが、俺の完全に露出した素肌の股間の上に、ゆっくりと、しかし正確に置かれた。


「ひっ…! あ、あああっ!」


布一枚の隔たりもない、ダイレクトな暴力。ひんやりとした汚れたゴムの感触が、直に肌を犯す。千世は構わず、ぐっと全体重をかけてきた。

ギザギザのシャークソールが、ヤスリのように敏感な皮膚に食い込み、擦れる。体の中心を貫く、鋭利で暴力的な痛み。自分の柔らかい肌の上に、街の汚れをまとった硬質な靴裏が君臨している。そのあまりにも直接的な支配の構図に、俺の思考はショートした。


「ほら、口を止めないで。ちゃんと綺麗になるまで食べなさい」

彼女は俺の股間を靴で踏みつけ、逃げられないように固定しながら、冷たく言い放つ。

口の中では、靴裏にこびりついた汚れた餌を漁り、体の中心では、主人の靴に直接踏みつけられ、その凹凸を肌に刻み込まれる。

二つの全く違う場所から、同じ靴による、同じ種類の暴力的な屈辱が、同時に俺の全身を貫いていく。その倒錯した快感に、俺の体はビクビクと痙攣を続けた。


やがて、靴裏が綺麗になったのを確認すると、千世は満足そうに両足を下ろした。

「よし。ご苦労さま」

彼女は何事もなかったかのように、弁当の続きを食べ始める。

俺は床に突っ伏したまま、口の中に残る屈辱的な味と、下腹部に刻まれた生々しいギザギザの跡の痛みと熱を反芻していた。

餌を与えられ、同時に躾をされる。

俺はもう、ただの犬ですらなかった。彼女の気まぐれで、その役割さえも変えられてしまう、完全な所有物なのだ。その事実が、俺の心を絶望と歓喜のさらに奥深くへと突き落としていった。

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