真夏のレーザービーム
@simadamio
第1話
真夏のレーザービーム
小学6年生の春、教室がまだ新しいクラスの匂いで満たされていた頃、千世は俺たちのクラスにやってきた。
「千世です。よろしくお願いします」
教壇の上で、彼女は短くそう挨拶しただけだった。誰とも視線を合わせず、その表情は硬く、まるで自分の周りに見えない壁を作っているかのように、彼女は孤立していた。休み時間も、いつも一人で窓際の席で静かに本を読んでいる。その壁を誰も越えようとしなかったし、彼女自身もそれを望んでいないように見えた。
そんな千世が、この学校で最初に言葉を交わした相手は、俺だった。
転校してきて数日後、彼女が図書室の場所が分からず困っているところに、俺が偶然通りかかったのだ。「あ、あの…」と、蚊の鳴くような声で話しかけてきた千世を、俺は図書室まで案内した。道中、ぽつりぽつりと交わした言葉は他愛もないものだったが、最後に彼女が見せた「ありがとう」という、ほんの少しだけ壁が溶けたような微かな笑みは、俺の心に深く刻まれた。
その日から、俺は千世のことを特別に意識するようになった。そして、千世も俺に対してだけは、ほんの少しだけ心を許してくれているような気がしていた。目が合えば会釈をしてくれたり、俺が話しかければ、短いながらも返事をしてくれたり。このまま、ゆっくりと仲良くなれるのかもしれない。そんな淡い期待を、俺は抱いていた。
そう、あの昼休みを境に、俺が全てをめちゃくちゃにしてしまうまでは。
太陽が全ての熱量を地面に叩きつけているかのような、うだる昼休み。教室の中だけが、クーラーの効いた別世界だった。俺はタカシやハルキといった友人たちと、教室の後ろのスペースで消しゴム落としに興じていた。机の上の小さな攻防は白熱し、俺は夢中になるあまり、自分の立ち位置を見失っていた。
「うおっ!」
何かに足を取られ、俺の体は大きくバランスを崩した。ドスン、という鈍い音と共に、俺は床に倒れ込む。その先には、本棚の陰で読書にふけっていた千世がいた。俺は、ちょうど彼女の足元に転がってしまったのだ。
「……ちょっと、邪魔なんだけど」
頭上から降ってきたのは、温度を感じさせない低い声だった。だがその声には、単なる迷惑さだけでなく、「よりによって、あんたが?」というような、微かな失望の色が滲んでいるのを、俺は感じ取ってしまった。
「ご、ごめん!わざとじゃ…」
「分かってる。どいて」
それだけ言うと、彼女はフンと鼻を鳴らし、再び物語の世界へと戻ってしまった。俺はそそくさとその場を離れた。胸がチクリと痛んだ。
一度目は、それだけで済んだ。だが、さらに白熱したゲームの数分後、俺はまたしても同じ過ちを繰り返してしまう。今度は足がもつれ、受け身も取れずに仰向けにひっくり返る形で、再び彼女の足元に倒れ込んでしまった。後頭部を床に軽く打ち付け、チカチカする視界に、千世の姿が映る。
「いい加減にしてよ」
先ほどより明らかに語気が強い。千世は本を完全に閉じ、膝の上に置いた。そして、ゆっくりと俺を見下ろす。その表情には、明確な苛立ちと…そして、裏切られたような、悲しい色が浮かんでいた。彼女が履いているのは、少し使い古されたアシックスのレーザービーム。転校してきた日からずっと履いている、見慣れた靴だ。真っ白だったはずのメッシュ素材は少し汚れ、つま先のあたりには擦れた跡がいくつかある。かかと部分の鮮やかな水色や、ピンク色のアシックスロゴも、新品の頃の輝きは失せているが、それが逆に彼女が活発に動いている証拠のようにも見えた。
スッと、その片足が、俺の顔の真上に持ち上げられた。目の前に、その水色の靴裏が壁のように現れる。土足で一日過ごしているため、靴裏には校庭の細かな砂や教室のホコリがうっすらと付着していた。使い込まれたゴムの匂いが、鼻先をかすめる。
「次やったら、踏むよ?」
その言葉は、俺の羞恥心と、失望させてしまったことへの焦り、そして子供じみた反抗心をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。何とかしてこの状況を打開したくて、俺は最も馬鹿な言葉を口にした。
「へー、踏めるもんなら踏んでみろよ!」
自分でも驚くほど、挑発的な声が出た。千世はしばらく無言で俺を見ていたが、やがてその唇の端に、フッと諦めたような、悲しい笑みを浮かべた。
「そう。じゃあ、遠慮なく」
その言葉と同時に、俺の顔の上で静止していた靴裏が、ゆっくりと、だが寸分の迷いもなく降りてきた。抵抗しようにも、あまりに静かなその動きに、体は金縛りにあったように動かなかった。
そして、俺の右の頬に、ぐ、と重みがかかった。
ひんやりとしたゴムの感触。すり減ってはいるが、まだしっかりとした凹凸が、肌に食い込むのが分かる。細かな砂の粒がザラリと肌をこする不快な感覚。千世は、そこにゆっくりと体重をかけ始めた。ゆっくりと、しかし確実に。ミシミシと音を立てそうなほど、頬の肉が圧迫され、顎が硬い床に押し付けられる。さっきまでの虚勢は一瞬で吹き飛び、頭の中が真っ白になった。痛い、という感覚よりも、「どうして」という衝撃が大きかった。
視界のほとんどはレーザービームの靴底に塞がれている。わずかな隙間から見える千世の顔は、何の感情も浮かんでいないように見えた。ただ、冷ややかに、最初に築いたはずの僅かな信頼関係を、自ら踏み潰すように、俺を見下ろしているだけだ。
永遠にも感じられた時間の後、ふっと頬の重みが消えた。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く中、俺は床に転がったまま、ジンジンと熱を持つ頬に、彼女の靴裏の感触と、失ってしまったものの重さを、同時に感じていた。
この事件以来、俺と千世の関係は完全に変わった。彼女は俺と一切口を利かなくなり、目さえ合わせようとしなくなった。そして俺の心は、後悔と罪悪感を通り越し、倒錯した執着に支配され始めた。失った信頼を取り戻す術を知らない俺は、彼女からのどんな形であれ、もっと強烈な干渉を求めるようになってしまったのだ。
数日後の放課後。日直だった俺と千世は、二人きりで職員室からの帰り道を歩いていた。オレンジ色の西日が差し込む廊下は、静まり返っている。階段の踊り場で、俺は震える声でまた謝罪の言葉を口にした。
「…ごめん。俺、調子に乗ってた」
「ああ、あれ。別にいいけど」
そう言って、千世は俺に背を向け、行ってしまおうとする。その拒絶がたまらなく嫌で、俺は無意識に彼女の腕を掴んでいた。
「待って!」
千世は驚いたように振り返り、その目に冷たい光を宿した。
「…なれなれしく触らないでよ」
言うが早いか、彼女の足がしなやかに、そして素早く動いた。バドミントンで鍛えられた体幹は一切ブレることなく、振り上げられたレーザービームのつま先が、俺の股間を正確に蹴り上げた。
「ぐ、ぁ…っ!」
内側から爆ぜるような、息もできないほどの激痛。俺はその場にうずくまり、胃の中身がせり上がってくるのを必死にこらえた。
「だから言ったでしょ。もうしないでって」
千世は俺を冷ややかに見下ろし、コツ、コツ、と靴音を残して一人で去っていった。踊り場に一人、激痛に耐えながら、俺は不思議な満足感を覚えていた。もう昔のようには戻れない。ならば、この関係を突き進むしかない。そう、歪んだ形で確信してしまった。
翌日の放課後。俺はもう、自分を止められなかった。体育館裏の渡り廊下で千世を待ち伏せし、またしても、その腕を掴んでしまった。
「しつこい!」
今度は、明確な怒りをはらんだ声だった。千世は俺の胸を強く突き飛ばし、俺はコンクリートの床に仰向けに倒れる。俺が起き上がるより先に、千世が倒れた俺の真上にかぶさるように立った。
「本当に分かってないんだね。言葉で言っても、痛みで教えても、あんたには無駄みたいだ」
冷え切った声と共に、彼女の右足がゆっくりと上がる。次の瞬間、俺の体の中心、その一点に、的確に彼女の靴が置かれた。
「あ…ぐ、ぅっ…!」
レーザービームの靴裏が俺の股を正確に捉え、千世がゆっくりと全体重をかけてきた。体の芯を貫くような鋭い痛みに、俺は声もなく体を弓なりに反らせた。千世は俺の上で、ぐり、とわずかにかかとを動かした。そのえぐるような激痛に、俺の体は痙攣する。やがて満足したのか、彼女はすっと足を下ろし、「…じゃあ」とだけ言い残して去っていった。床に転がったまま、俺は確信する。ああ、ダメだ。もう、引き返せない。
その歪んだ思いは、ついに俺を最も危険な領域へと踏み込ませた。
さらに翌日の放課後。ほとんどの生徒が帰り、静まり返った教室。俺は、教室の入り口脇にある千世の下駄箱の前に立っていた。心臓が早鐘を打つ。震える手でそれを開け、中にあるレーザービームを手に取った。ひんやりとしたメッシュ生地、すり減った靴裏。体育や部活で染みついた、彼女自身の微かな匂い。俺は理性のタガが外れるのを感じ、その匂いを深く吸い込もうと、靴を顔に近づけた。
「――あんた、そこで何してんの?」
氷のような声が背後から突き刺さった。振り返ると、全ての感情を消した無表情の千世が立っていた。最悪の瞬間だった。
「気持ち悪い…」
心の底から吐き出すようなその一言に、俺の心臓は凍り付いた。最初に心を許してくれた相手が、今や自分を心の底から軽蔑している。その事実が俺を絶望させる。だが、千世は俺をしばらく観察するように見ていたが、やがて、その唇の端に、あの時と同じ、恐ろしい笑みを浮かべた。
「…ふーん。でも、そっか。そんなに私の靴が好きなんだ。じゃあさ、特別に舐めさせてあげる。ついてきなよ」
連れてこられたのは、ほとんど使われていない理科準備室だった。千世は中に入ると、無言でドアに鍵をかける。カチャリ、という音が、俺に逃げ場がないことを告げていた。
「ほら、そこに座って」
彼女が指さしたのは、床だった。俺は言われるがまま、その場に正座する。千世はパイプ椅子に腰掛けると、俺を見下ろした。彼女は俺の惨めな姿を値踏みするように眺め、そして冷たく言った。
「…その前に、ズボンとパンツ、脱いで」
「えっ…?」
「早く。邪魔だから」
命令は絶対だった。俺は羞恥に顔を焼かれながら、震える手で制服のズボンのベルトに手をかけた。バックルを外し、ファスナーを下ろし、床に脱ぎ捨てる。ひんやりとした準備室の空気が、下着一枚になった足にまとわりついた。
「全部って言ったでしょ」
俺は覚悟を決め、最後の一枚も脱ぎ捨てた。床にうずくまる俺は、完全に無防備だった。
「よし。じゃあ、あんたが匂いを嗅ごうとしたのは、こっちだっけ」
千世は履いている右足のレーザービームを、俺の目の前に突き出した。
「ほら、舐めなよ。好きなんでしょ?」
突き出された靴のつま先。俺はゆっくりと、膝立ちの体勢で上半身を折り曲げた。
その瞬間、千世の左足が、俺の完全に露出した股を上からゆっくりと踏みつけた。
「ぐ…ぅうっ!」
レーザービームの冷たい靴裏が、俺の無防備な素肌に直接触れた。ザラザラした感触と、布一枚隔てないゴムの硬さが、恐怖を直接脳に送り込んでくる。じわじわと強まる痛みと重みに俺が耐えていると、千世はつま先に僅かに力を込め、靴裏を小刻みに振動させた。硬いゴムが肌の上で擦れる微かな音。そのたびに、体の芯に灼けるような痛みが走り、俺は声にならない呻きを漏らした。
「ちゃんと味わいなよ」
俺の反応を面白がるように、千世は今度はぐっと、かかとに全体重を乗せてきた。一瞬、意識が飛びそうなほどの激しい衝撃。内臓が押し潰されるような圧迫感に、俺の体は大きく跳ねた。
千世は俺の股を靴で踏みつけて逃げられないようにしながら、右足の靴を俺の口元に押し付ける。
「ほら、早く」
俺は、断続的に襲ってくる激痛と、目の前の屈辱に耐えながら、言われるがまま、ザラリとしたゴムの靴裏に、舌を這わせた。土と、ゴムと、微かな汗の匂いが混じった味が、口の中に広がった。
どれくらいの時間が経っただろうか。千世はふっと力を抜き、右足を引っ込めた。
「…もういいよ」
解放された俺は、その場に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
「次、左」
千世はそう言うと、履いている左足のレーǝービームを俺の目の前に突き出した。そして、俺の制服のシャツの裾を掴むと、無造作に引っ張り上げた。ボタンがいくつか弾け飛び、俺の細い胸元と腹があらわになる。
「邪魔なんだもん。…ほら」
彼女の右足が、俺の露出した胸元、乳首のあたりに、つま先でそっと触れた。ひんやりとしたメッシュ生地の感触。そのつま先が、ぐりぐり、と微かに乳首を弄び始める。神経が集中している場所を直接刺激され、ぞくりと全身に電流が走った。屈辱と、そして、得体の知れない快感が入り混じり、俺は息をのんだ。
「左もちゃんと磨いて」
千世の声が、脳の奥底に響く。俺は、右足のつま先に乳首を弄ばれながら、目の前の左足の靴裏に、再び舌を伸ばした。今度は、先ほどよりももっと丁寧に、時間をかけて、隅々まで清めるように舐め続けた。
やがて千世は両足を床に戻すと、俺の頭を、履いている靴のつま先で軽く突いた。
「汚れた。拭いときなよ」
俺がシャツの袖で、舐め終わった靴裏と、彼女のつま先で弄ばれた乳首を拭うと、千世は満足そうに言った。
「あんたさ、本当に気持ち悪いけど、面白いね」
椅子から立ち上がりながら、千世は言った。その声には、軽蔑だけでなく、何か新しい感情が混じっているように聞こえた。まるで、新しいおもちゃを見つけた子供のような。
「決めた。明日から、あんたは私の犬ね」
「……え?」
「毎朝、教室に来る前に、私の靴を磨きなさい。ここで。私が満足するまで」
それは命令だった。拒否権など、最初から存在しない。
千世は鍵を開けると、「じゃあね、ポチ」と吐き捨てるように言い、一人で準備室から出て行った。
一人残された俺は、床に散らばった自分の服を見つめ、体の中心に残る激しい痛みと、口の中に広がる屈辱的な味、そして最後に投げかけられた言葉を反芻していた。
犬。彼女の、犬。
その言葉は、俺の心を絶望のどん底に突き落とすどころか、暗く、甘美な光で満たしていった。俺はゆっくりと服を着ると、何事もなかったかのように部屋を出た。
翌朝、俺は誰よりも早く学校に来て、理科準備室の前で千世を待った。ポケットには、昨夜、家で必死に選んだ靴磨き用のクロスが入っていた。だが、それは必要ない。彼女の犬である俺には、そんなものは必要なかった。
やがて、千世が登校してきた。俺の姿を認めると、驚きもせず、当然のように足を止める。
「来たんだ」
「……はい」
俺が頷くと、千世は壁に手をつき、片足をすっと上げた。磨け、という無言の命令だ。
俺はためらわず、その前にひざまずいた。そして、彼女の履いているレーザービームのつま先に顔を寄せると、舌を伸ばし、付着した土やホコリを丁寧に舐め取り始めた。白いメッシュ部分を清め、ピンクのロゴを傷つけないように舐め、水色のかかとを輝かせる。
俺の頭上では、千世が静かに俺の作業を見下ろしている。その表情はもう読めない。ただ、時折、彼女はつま先で俺の顎をくいと持ち上げたり、頭を撫でるように靴の側面をこすりつけてきたりした。そのたびに俺の体はビクッと震えたが、作業を止めることはなかった。
かつて、ほんの少しだけ通じ合えたはずの心。それを自ら壊してしまった俺がたどり着いた、歪んだ関係。これが俺と彼女だけの、新しい秘密の形。そう思うだけで、俺は満たされた。舌で清められた靴は、朝日を浴びて、あの頃のように、いや、あの頃以上に輝いて見えた。
数年の歳月が流れた。
俺と千世は、あの理科準備室での歪んだ儀式を最後に、中学、高校と一度も交わることなく、それぞれの道を歩んだ。俺は都内の大学に進学し、ごく平凡な一人暮らしの男として生きていた。心の奥底には、今も彼女に付けられた“犬”としての記憶が、消えない烙印のように焼き付いてはいたが、それはもう遠い過去の、異常な思春期の熱病だったと自分に言い聞かせていた。
その日、俺は渋谷の雑踏の中にいた。人をかき分けるようにしてスクランブル交差点を渡っていた、その時だった。対岸の、雑踏の中に立つ一人の女性に、俺の視線は釘付けになった。
すらりとした長身、ショートカットの髪、そして、どんなに着飾った人間よりも強く人を惹きつける、凛とした佇まい。間違いない。岩田千世だった。
時が止まった。声をかけるべきか、このまま人混みに紛れて消えるべきか、判断がつかない。ただ、心臓だけが激しく鼓動を打っていた。俺の視線に気づいたのか、千世がゆっくりとこちらを向く。その涼やかな目元が、俺を捉えて、ほんの少しだけ細められた。彼女は、俺を覚えていた。
信号が青に変わる。俺は動けずにいた。千世は、人波を逆らうように、まっすぐにこちらへ歩いてくる。俺の目の前で立ち止まった彼女は、昔と変わらない、感情の読めない声で言った。
「久しぶり」
「……あ、あぁ。久しぶり」
声が上ずる。数年ぶりに交わした言葉は、あまりにぎこちなかった。何を話せばいいのか分からない。ただ、俺の視線は、自然と彼女の足元に落ちていた。
かつての、履き古されたアシックスレーザービームではない。そこに収まっていたのは、ニューバランスのスニーカーだった。夜のアスファルトを思わせるようなマットな黒を基調とし、サイドの『N』のロゴが鮮やかなグリーンで縁取られている。洗練されたデザインが、大人になった彼女によく似合っている。
俺の視線に気づき、千世の唇の端に、昔を思い出させるような、微かな笑みが浮かんだ。
「…まだ好きなの?」
その一言で、俺の心に蓋をしていた過去の記憶が、堰を切ったように溢れ出した。逆らえない。この人の前では、俺はただの“ポチ”に戻ってしまう。俺が何も言えずにいると、千世は続けた。
「じゃあさ、また舐めさせてあげる」
まるで、「お茶でもどう?」とでも言うかのような、ごく自然な口調だった。その言葉に、俺はほとんど無意識に、しかしはっきりとした意思を持って答えていた。
「…俺の家、ここから近い」
千世は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに面白そうに口元を歪めた。
「そう。じゃあ、案内して」
俺は黙って頷き、彼女を自分の住むワンルームマンションへと導いた。道中、会話はない。ただ、俺の後ろを歩く彼女の、黒いスニーカーの靴音だけが、やけに大きく聞こえた。
アパートのドアを開け、俺は玄関で自分の靴を脱いだ。千世にスリッパを、と思った瞬間、彼女は俺を気にも留めず、スタスタと部屋の奥へと歩いて行った。
土足のまま。
ニューバランスのスニーカーが、俺が毎日掃除しているフローリングの床を、何の躊躇もなく踏みしめていく。日本人としての常識が、俺の頭の中で警鐘を鳴らす。だが、それ以上に、自分のテリトリーが、聖域が、彼女によっていとも簡単に汚されていく光景に、背徳的な興奮が背筋を駆け上がった。この部屋は、もう俺のものではない。彼女のものだ。
千世は部屋の中央で振り返ると、俺に顎をしゃくった。
「いつまでそこにいるの?早く鍵、閉めてきなよ」
俺は言われるがままにドアを施錠し、彼女の前へと進んだ。彼女は俺の部屋のベッドに、女王のように腰掛けた。シーツの上に土足のまま。
「じゃあ、始めよっか。まずは、下の服、全部脱いで」
命令は絶対だった。俺は羞恥に顔を焼かれながら、震える手で制服ではない、自分の私服のズボンのベルトに手をかけた。バックルを外し、ファスナーを下ろし、床に脱ぎ捨てる。ひんやりとした自室の空気が、下着一枚になった足にまとわりついた。
「全部って言ったでしょ」
俺は覚悟を決め、最後の一枚も脱ぎ捨てた。自分の部屋で、完全に無防備な姿を晒す。
「よし。じゃあ、まずは右足から」
千世はベッドに座ったまま、右足を俺の目の前に突き出した。
俺はゆっくりと、膝立ちの体勢で上半身を折り曲げた。
その瞬間、千世の左足が、俺の完全に露出した股を上からゆっくりと踏みつけた。
「ぐ…ぅうっ!」
ニューバランスの冷たい靴裏が、俺の無防備な素肌に直接触れた。ザラザラした感触と、布一枚隔てないゴムの硬さが、恐怖を直接脳に送り込んでくる。じわじわと強まる痛みと重みに俺が耐えていると、千世はつま先に僅かに力を込め、靴裏を小刻みに振動させた。硬いゴムが肌の上で擦れる微かな音。そのたびに、体の芯に灼けるような痛みが走り、俺は声にならない呻きを漏らした。
「ちゃんと味わいなよ」
俺の反応を面白がるように、千世は今度はぐっと、かかとに全体重を乗せてきた。一瞬、意識が飛びそうなほどの激しい衝撃。内臓が押し潰されるような圧迫感に、俺の体は大きく跳ねた。
千世は俺の股を靴で踏みつけて逃げられないようにしながら、右足の靴を俺の口元に押し付ける。
「ほら、早く」
俺は、断続的に襲ってくる激痛と、目の前の屈辱に耐えながら、言われるがまま、ザラリとしたゴムの靴裏に、舌を這わせた。小学生の頃とは違う、アスファルトの粉塵と都会の匂いが混じった味がした。
どれくらいの時間が経っただろうか。千世はふっと力を抜き、右足を引っ込めた。
「…次、左」
解放された俺は、その場に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。だが、すぐに命令に従い、再び膝立ちになる。千世は履いている左足のスニーカーを俺の目の前に突き出した。そして、空いた右足が、俺のTシャツの裾を器用にめくり上げる。Tシャツが胸元までたくし上げられ、腹と胸が完全に露出した。
「……ほら」
彼女の右足のつま先が、俺の露出した胸元、乳首のあたりにそっと触れた。黒いスエードのひんやりとした感触。そのつま先が、緑のロゴを誇示するように、ぐりぐり、と微かに乳首を弄び始める。神経が集中している場所を直接刺激され、ぞくりと全身に電流が走った。屈辱と、そして、得体の知れない快感が入り混じり、俺は息をのんだ。
「左もちゃんと磨いて」
千世の声が、脳の奥底に響く。俺は、右足のつま先に乳首を弄ばれながら、目の前の左足の靴裏に、再び舌を伸ばした。今度は、先ほどよりももっと丁寧に、時間をかけて、隅々まで清めるように舐め続けた。
やがて千世は両足を床に戻すと、俺の頭を、履いている靴のつま先で軽く突いた。俺は、言われる前に、たくし上げられたTシャツの袖で、舐め終わった二足の靴裏を丁寧に拭いた。
「…ふふっ。あんたの部屋、面白いね」
千世は立ち上がり、土足のまま部屋を少し歩き回った。ベッドの上も歩き回り、シーツには黒い靴裏の跡がいくつも残る。俺の机の上の本を手に取ったり、クローゼットを少し開けたりして、満足そうに頷いた。
「決めた。あんたは、また今日から私の犬。そして、この部屋は、私の犬小屋」
彼女は俺の前に戻ってくると、しゃがみ込み、俺の顎を掴み、無理やり上を向かせた。
「連絡先、教えなさい。またこの犬小屋に、遊びに来てあげるから」
俺は震える声で電話番号を告げると、千世は満足そうに頷き、立ち上がった。
「じゃあね、ポチ。ちゃんと床、綺麗にしときなよ」
千世はそう言い残し、鍵を開け、土足のまま部屋から出て行った。
一人残された自室で、俺はゆっくりと服を着た。フローリングにも、ベッドのシーツにも、彼女の黒いスニーカーが残した、点々とした土汚れの足跡が残っている。体の痛みよりも、自分の聖域だったはずのこの部屋が、彼女の足跡で穢されたという事実が、俺の心を暗く、甘美な光で満たしていった。
これから、この部屋で、彼女に支配される日々が始まる。そう思うだけで、俺は歓喜に打ち震えていた。
数日後。
俺は、千世からのメッセージに、ほとんど反射的に「はい」と返信していた。指定されたのは、前回と同じ俺の部屋。俺は言いつけ通り、部屋を掃除して、彼女の来訪を待った。
チャイムが鳴り、ドアを開けると、そこにはまた千世が立っていた。今回も、足元には黒とグリーンのニューバランスのスニーカー。彼女は挨拶もせず、当たり前のように土足のまま部屋に入り込み、前回と同じようにベッドに腰掛けた。
「ほら、早く脱いで。今日もちゃんと磨きなさい」
俺は前回と同じように、言われるがままに服を脱ぎ、全裸になった。千世は満足そうに頷くと、足を俺の目の前に突き出した。
俺は膝立ちで、その黒いスニーカーのつま先に顔を寄せる。そして、舌を伸ばし、付着した埃を丁寧に舐め取った。ロゴのグリーンが鮮やかに輝く。一通りの作業を終え、千世が足を引っ込めた時だった。
「…ねえ」
千世の声は、どこか訝しげだった。俺は顔を上げ、彼女の視線が、俺の下半身に注がれていることに気づいた。
「あんた、もしかして、包茎?」
俺は心臓が跳ねるのを感じた。今まで誰にも指摘されたことのない、密かな悩み。それを、彼女は一目で見抜いたのだ。
俺は、顔を真っ赤にして俯くしかなかった。千世は面白そうにフッと笑うと、ベッドからゆっくりと立ち上がった。そして、土足のまま俺の前に立つと、履いている右足のつま先で、俺の股間にそっと触れた。
ひんやりとしたスエードの感触が、デリケートな部分に直接伝わる。俺がびくりと体を震わせると、千世は微かに力を込めた。
「…ふーん。だから、こんなに気持ち悪いんだ」
彼女のつま先が、俺の敏感な部分を、ゆっくりと、しかし確実に撫で回し始めた。そのたびに、ゾクゾクとした快感と、これから何が起こるのかという恐怖が入り混じり、俺は息をのんだ。
「これじゃ、ちゃんと洗えてないでしょ」
千世は、黒いスニーカーのつま先で、俺の秘められた部分の皮を、ゆっくりと、しかし容赦なく、剥き始めた。
ザラリとしたスエードの生地が、敏感な粘膜に直接触れる。経験したことのない異物感と、じわじわと広がる鈍い痛み。俺は息を止め、ただその侵食に耐えるしかなかった。
「ほら、こんなに汚れてる。ちゃんと掃除しないと病気になるよ?」
千世は医者が患者に言い聞せるような、淡々とした口調で言った。だが、その声には明らかに愉悦の色が滲んでいる。彼女のつま先は、さらに奥へと進み、隠されていた先端を完全に露わにする。そして、その一点を、靴の先端でぐり、と押し付けた。
「ひっ…!」
今まで感じたことのない種類の、鋭い快感が背筋を駆け上がった。痛みと、屈辱と、そして抗いがたい興奮がごちゃ混ぜになって、頭の中を真っ白にする。俺の体は意思に反してビクンと跳ね、下腹部が熱を持ち始めるのが分かった。
「…ふふっ、正直な体。気持ちいいんでしょ、こうされるの」
千世は俺の反応を面白がるように、靴のつま先をさらに巧みに動かし始めた。円を描くように撫で回したり、先端で軽く突いたり。そのたびに、俺の体は大きく震え、浅い呼吸を繰り返す。彼女は俺のすべてを、足元のスニーカー一つで完全にコントロールしていた。汚れた靴で、俺の最も清潔であるべき場所を穢し、快楽を与えている。その倒錯した事実に、俺の理性は完全に麻痺していった。
しばらくの間、その奇妙な「清掃」は続いた。俺が限界を迎えそうになった、まさにその瞬間、千世はふっと力を抜き、足を離した。
「はい、おしまい。綺麗になったでしょ」
解放された俺は、その場に崩れ落ち、ぜえぜえと肩で息をした。下半身には、彼女の靴に蹂躙された生々しい感覚が残っている。千世はベッドの上からそんな俺を見下ろし、満足そうに言った。
「あんたさ、本当に面白いおもちゃだね。私が教えたこと、すぐに覚えるし、反応も素直だし」
彼女はベッドから降りると、土足のまま俺の前にしゃがみ込んだ。そして、俺の髪を優しく撫でた。まるで、よく言うことを聞いた犬を褒めるかのように。
「決めた。あんたにもっと良いことを教えてあげる。私の『犬』なんだから、ちゃんと躾けないとね」
そう言うと、彼女は俺の顎を掴み、顔を上げさせた。至近距離で見つめ合う。その瞳の奥には、冷たさだけでなく、どろりとした独占欲が渦巻いているのが見えた。
「まず、この部屋の合鍵、作りなさい。ここは私の『犬小屋』なんだから、私が出入り自由なのは当然でしょ?」
「……はい」
「それから、私がいつ来てもいいように、常に部屋は綺麗にしておくこと。でも、私がつけた足跡は、私が次に『掃除』を命じるまで、絶対に消しちゃダメ。分かった?」
「……はい」
「私が来たら、すぐに服を脱いで、私の靴を舐める準備をすること。私が満足するまで、何度でもね」
「はい、千世様」
無意識のうちに、俺の口からは敬称がついて出ていた。その言葉を聞いた千世は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに心の底から楽しそうな、妖艶な笑みを浮かべた。
「…ふふ、よくできました。ポチ」
彼女は立ち上がると、俺の頭をスニーカーのつま先でポンと軽く叩いた。
「じゃあ、合鍵、できたら連絡して。それまで、この足跡を見て、私のこと、ずっと考えてなさい」
千世はそう言い残し、今度こそ部屋から出て行った。一人残された部屋に、静寂が戻る。俺はしばらくの間、全裸のまま床に座り込んでいた。体中に残る彼女の痕跡。フローリングやベッドのシーツについた黒いスニーカーの足跡。そして、下腹部に残る、甘く疼くような痛み。
すべてが、彼女に支配されている証だった。
俺はゆっくりと立ち上がり、床に残された彼女の足跡を、一つ一つ指でなぞった。この部屋はもう、俺だけの場所ではない。彼女がいつでも帰ってくる、彼女だけの「犬小屋」なのだ。そして俺は、彼女の帰りを待つ忠実な「犬」。
その事実が、俺の心を、暗く、どこまでも甘美な喜びで満たしていく。俺は、次に彼女がこのドアを開ける瞬間を、ただひたすらに待ち焦がれていた。ポケットの中で、スマートフォンが震える。千世からのメッセージだった。
『今日の靴、結構汚れちゃった。早く舐めて綺麗にしてほしいな』
その短い文章を読んだだけで、俺の体は再び熱を帯び始めた。俺は、震える指で、ただ一言だけ返信した。
『はい、喜んで』
翌日、俺は講義もそこそこに、すぐに合鍵を作った。震える手で千世に「合鍵ができました」とメッセージを送ると、すぐに「大学の裏門で待ってて」と返信が来た。
指定された場所で待っていると、やがて千世が姿を現した。今日の彼女も、黒とグリーンのニューバランスを履いている。俺は駆け寄り、まるで貢物でも捧げるかのように、出来立ての合鍵を両手で差し出した。
千世はそれをひったくるように受け取ると、値踏みするように眺め、そしてにやりと笑った。
「ご苦労さま、ポチ。これで、この犬小屋は完全に私のものね」
彼女はその鍵を自分のキーケースにしまうと、付け加えた。
「いつ行くかは、私の気分次第。あんたが寝てても、お風呂に入ってても、私は勝手に入るから。いつでも『準備』してなさいよ」
その言葉は、俺の生活のすべてを掌握するという宣言だった。俺は深く頷くことしかできない。千世は満足そうに踵を返し、人混みの中へと消えていった。
その日から、俺の本当の地獄であり、天国である日々が始まった。
いつドアが開くか分からない。講義から帰ってくるとき、シャワーを浴びているとき、眠りに落ちる寸前。常に玄関のドアを意識し、鍵が回るかすかな音に神経を尖らせる。床に残された彼女の足跡は、その緊張を煽るように、俺の視界に焼き付いていた。友人からの誘いも「用事がある」と断り続け、俺の世界は急速に、この四畳半の「犬小屋」の中だけに閉じていった。
そして、その日は突然やってきた。
外は、数日前から降り続く冷たい雨。深夜一時を回った頃、俺がベッドの中で浅い眠りについていると、カチャリ、と静かに、しかし明確にドアの鍵が開く音がした。
心臓が跳ね上がる。来た。
ゆっくりとドアが開き、光の筋と共に現れたのは、ずぶ濡れの千世だった。いつもと雰囲気が違う。きっちりとした黒いスーツに身を包み、髪からは雨の雫が滴っている。就職活動か何かだろうか。その表情はひどく疲れていて、不機嫌そうだった。
そして、俺の視線は彼女の足元に吸い寄せられた。いつものスニーカーではない。雨に濡れて鈍い光を放つ、黒い革のパンプス。先のとがった、華奢だが攻撃的なフォルム。そして、俺のフローリングをコツ、と硬質な音で叩く、細く鋭いヒール。
「……ただいま、ポチ」
「お、おかえりなさいませ、千世様」
俺がベッドから飛び起きると、千世は濡れたパンプスのまま、躊躇なく部屋に上がり込んできた。フローリングに、雨水と泥が混じった黒い足跡が点々と刻まれていく。
「最悪の日。びしょ濡れだし、足は痛いし、ムカつくことばっかり」
彼女はそう吐き捨てると、椅子にどさりと腰を下ろし、足を組んだ。そして、そのパンプスのつま先を俺に向け、顎をしゃくる。
「…あんたが癒やしなさい。私の犬なんだから、主人の疲れを取るのは当然の役目でしょ」
命令。俺はすぐさま彼女の足元にひざまずいた。
「まず、この濡れた靴、なんとかして」
俺は言われるがまま、自分のTシャツの裾で、彼女のパンプスについた雨水を丁寧に拭き取り始めた。冷たい革の感触。スニーカーとは全く違う、微かな革製品の匂い。拭き終えると、千世は組んだ足を入れ替え、もう片方も拭けと命じた。
すべてが終わると、彼女はふう、と息をついた。
「…まだ足りない。あんたの体で、私の足を温めなさい」
千世はそう言うと、パンプスを履いたまま、俺の太ももの上に両足を乗せてきた。細く硬いヒールが、俺の柔らかい肉にぐっさりと食い込む。
「いっ…!」
思わず声を上げると、千世は面白そうに口の端を上げた。
「痛い? でも、気持ちいいんでしょ?」
彼女は体重をかけ、ヒールをさらに深く食い込ませてきた。鋭い一点の痛みが、神経を灼く。だが、その痛みはすぐに、脳を痺れさせるような倒錯した快感へと変わっていった。
「…ねえ、ポチ。疲れたから、マッサージして」
千世は俺の体の上で足を休ませたまま、そう命じた。俺は震える手で、彼女のパンプスに覆われた足首を掴む。そして、ふくらはぎを揉み始めた。スーツと雨で冷え切った彼女の筋肉は、硬くこわばっている。俺は一心不乱に、それをほぐし続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。千世の強張っていた体から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「…ん。少しはマシになった」
彼女はそう呟くと、俺の太ももから足を下ろし、今度はパンプスを脱ぎ捨てた。むわりと、革と汗の匂いが立ち込める。ストッキングに包まれた彼女の素足が、目の前に現れた。
「これも、綺麗にして」
千世はそう言うと、ストッキングのつま先を俺の口元に押し付けた。雨と汗で湿ったナイロンの感触。俺は言われるがままに、舌を這わせ、そのつま先から足裏、かかとまで、丁寧に舐め清めていく。
やがて満足したのか、彼女はすっと足を引いた。
「もう寝る。あんたはそこにいなさい」
千世は立ち上がると、俺のベッドに倒れ込み、スーツのまま泥のように眠り始めた。
一人、床の上に取り残された俺は、彼女が脱ぎ捨てた濡れたパンプスを、そっと胸に抱きしめた。ヒールの鋭い先端が胸に食い込む。
鍵を開ける音。新しい靴。新しい命令。
これが、これから毎日繰り返される、俺と彼女だけの儀式。俺の歪んだ日常が、今、確かに始まったのだ。俺は暗闇の中、主人の寝息を聞きながら、静かな歓喜に打ち震えていた。
あの日以来、俺の生活は千世という女王に支配される犬小屋での暮らしへと完全に変貌した。いつ鳴るか分からないドアチャイム、いや、今では合鍵で無音に開かれるドアに、俺の神経は常に張り詰めている。だが、その緊張は不思議な安らぎと期待感を伴っていた。主人の帰りを待つ犬とは、きっとこういう心境なのだろう。
その日、俺は狭いユニットバスの湯船に浸かり、一日の疲れを癒やしていた。講義とバイトでくたくたになった体を温かい湯が包み込む。この瞬間だけが、唯一俺が「俺」でいられる時間かもしれない。そんなことを思った矢先だった。
カチャリ。
かすかな、しかし聞き逃すはずのない金属音。玄関の鍵が開いた音だ。俺は湯船の中で体を硬直させた。来た。こんな、最も無防備な時間に。
足音がフローリングを横切り、迷いなくバスルームの前で止まる。そして、ガチャンと乱暴な音を立てて、磨りガラスのドアが開かれた。湯気の向こうに、千世が仁王立ちしていた。
今日の彼女は、グレーのスウェットにTシャツというラフな格好だった。だが、その足元は、見慣れない一足のシューズで固められていた。鮮やかな赤と黒のコントラストが目を引く、ミズノのテニスシューズ。部活で履いているのだろうか、白い靴紐は薄汚れ、側面にはクレーコートの赤い土が擦り付けられている。
彼女は、土足であることなど一切意に介さず、濡れたタイルの床にずかずかと踏み込んできた。
「…ポチ。気持ちよさそうにしてるところ、悪いけど」
千世の声は、いつもより低い。何かを品定めするような目で、湯船に浸かる俺の裸体を頭の先からつま先まで、じろりと眺めた。そして、その視線が俺の下腹部でぴたりと止まる。
「……あんた、さ」
彼女の目が、失望と軽蔑の色をたたえて、すっと細められた。
「私がこの間、せかく『綺麗』にしてあげたのに。…また元に戻ってるじゃない。本当に、手のかかる犬」
その声は、静かだが絶対的な怒りを含んでいた。
「ご、ごめんなさ…」
「いい。そこにいなさい。動かないで」
有無を言わさぬ命令。俺が湯船から出ようとするのを、彼女は手で制した。
千世はテニスで鍛えた体幹を活かし、バスタブの両縁に片足ずつかけるようにして、俺の上に跨った。そして、俺を見下ろす女王のように、ゆっくりと両足を同時に、ざぶんと湯船の中へと侵入させた。
二足分の靴から、ぶわりと赤い土や砂が溶け出し、清潔だったお湯は一瞬にして汚く濁った。聖域が、より徹底的に汚されていく。
「あんたが悪いんだからね。今度は、もっとちゃんと『掃除』しないと」
千世はそう囁くと、お湯の中で両足を巧みに動かし、俺の股間を左右から、二つのテニスシューズでぴたりと挟み込んだ。冷たく硬いゴムの靴裏が、内腿と、そして問題の部分にぐっと押し付けられる。逃げ場のない、完璧な拘束だった。
「じゃあ、いくよ」
その言葉と共に、彼女は両足にゆっくりと力を込めた。靴裏のザラザラした面が、お湯でふやけた柔らかい皮に食い込む。そして、まるで万力で締め上げるかのように、左右から圧力をかけながら、二足の靴を同時に先端へと、ずるり、と滑らせた。
「あ…ぐ、ぅううっ…!」
声にならない悲鳴が漏れる。むにゅり、と皮がめくれていく生々しい感触。それは痛みというよりも、自分の体の一部が、工業製品の部品のように、無機質な力で処理されていくような、絶対的な屈辱感だった。彼女は一度その動きを止め、そしてまた、根元から先端へと、ずるり、と靴を滑らせる。二度、三度と繰り返されるうちに、俺のそれは完全に剥き切られ、無防備な先端を晒した。
「…うん。まずはここまで」
千世は満足そうに呟くと、挟んでいた力を少しだけ緩めた。だが、本当の「躾」は、ここからだった。
「仕上げしてあげる」
彼女は右足のシューズの裏側、最も凹凸が激しくザラザリとした部分を、露出したばかりの俺の先端に、そっと押し当てた。
そして、ゴシ、ゴシ、ゴシ、と、熱を持ったそこを、ヤスリをかけるように優しく、しかし執拗に撫で始めた。
「ひっ…!あ、ぁああッ!」
痛みとは違う、脳の芯を直接焼かれるような、強烈な刺激が全身を駆け巡る。完全に剥かれて敏感になった部分を、土と砂の粒子が混じった硬いゴムで擦られる。それは拷問であり、同時に、抗いがたい快感でもあった。ゴシ、ゴシ、という靴裏の動きに合わせて、俺の体はビクン、ビクンと痙攣する。濁ったお湯の中で、俺は完全に彼女の足元の玩具と化していた。
やがて千世は満足したのか、ぴたりと動きを止め、両足を湯船から引き上げた。
「ほら、これで完璧。ツルツルになったでしょ」
彼女はバスタブの縁から降りると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「次はないからね。分かった?」
「は…はい…ありがとう、ございます…千世、さま…」
俺は朦朧とする意識の中、感謝の言葉を口にしていた。千世はそれを聞くと、満足そうに鼻を鳴らし、汚れた足跡を残して浴室から去っていった。
一人、濁りきった生温かい湯船の中で、俺は呆然と浮かんでいた。両足で挟まれた圧迫感と、最後に与えられたヤスリのような愛撫の感触が、まだ生々しく体に残っている。
俺の身体は、彼女の靴によって、彼女だけの好みの形に作り変えられたのだ。その紛れもない事実に、俺は絶望と、そして暗く歪んだ歓喜に震えるしかなかった。
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