第10話:騒がしい世界

美琴が手早く朝食を作っている間、悠真はテレビの報道を見続けた。


チャンネルを変えても、どこも月の話題一色だった。朝のニュース番組では、キャスターたちが深刻な表情で情報を伝え、専門家が緊急出演して解説をしている。


『潮汐への影響が懸念されます。2つの月の重力が複雑に作用し合うことで……』


『生態系への影響も無視できません。多くの生物が月の満ち欠けを基準に行動していますから……』


各国の政府も対応に追われているようだ。日本の首相も緊急記者会見を開き、国民に冷静な対応を呼びかけていた。


「はい、できました」


美琴が運んできたのは、トーストとスクランブルエッグ、それにサラダとコーヒー。いつもより簡素だが、今の状況では仕方ない。


「いただきます」


「いただきます」


トーストにバターを塗りながら、悠真は美琴に尋ねた。


「ところで、美琴はどうして月の件がすぐに俺の仕業だと分かったんだ?」


美琴は少し考えてから答えた。


「昨日の夜、悠真さんの部屋から七色の光が漏れているのを見たんです。ベランダの方から」


「え、見えてたのか」


「はい。ちょうどベランダで洗濯物を取り込んでいた時に。あの光は『無限複製』の時の光ですよね?」


悠真は頷いた。確かに、あの七色の光は目立つ。夜中なら尚更だ。


「それで、今朝のニュースを見て、すぐにピンときました」


「なるほど……」


食事をしながら、二人は今後の方針を確認した。


「この件は、絶対に他の人には言わないこと」


「当然です。誰も信じないでしょうけど。それと、今後は絶対に変なものを複製しないでくださいね」


「ああ、肝に銘じるよ」


「じゃあ、今日はいつも通り大学に行きましょう。慌てても仕方ないですし」


美琴の冷静な判断に、悠真も同意した。


 ◇ ◇ ◇


「今日は私は1限から、悠真さんは2限からでしたよね」


大学への道中、美琴が歩きながら言った。


「ああ。でも、どうせ起きちゃったし、一緒に行くよ。図書館で時間潰せるし」


「はい。一緒に行きましょう」


多くの人がスマートフォンで月のニュースをチェックし、不安そうに空を見上げている。コンビニの新聞売り場には「月が2つに!」という見出しが踊り、号外を配る人の姿も見えた。


電車の中でも、乗客たちの話題は月のことばかりだった。


「ねえ見た? 月が2つになってるって」


「怖いよね。世界の終わりかも」


「でも2つの月って、なんかロマンチックじゃない?」


若い女性たちの会話が聞こえてくる。悠真は苦笑いを浮かべながら、美琴の隣に立っていた。


「なんだか大変なことになっちゃったな」


悠真が小声で呟くと、美琴が囁き返した。


「本当に。でも、きっと何とかなりますよ」


大学に着くと、キャンパスは異様な熱気に包まれていた。学生たちが集まって月の話をし、教授たちも廊下で議論を交わしている。


「平山!」


経済学部の友人が悠真を見つけて駆け寄ってきた。


「見たか? 月が2つになってるんだぜ!」


「ああ、ニュースで見たよ」


「すげーよな。何が原因なんだろう」


「さあ、わけ分からないよな……」


悠真は曖昧に答えるしかなかった。


講義が始まっても、教室内のざわつきは収まらない。経済学の教授も、最初の10分間は月の話題に費やした。


「今朝のニュースは見ましたか? 経済への影響も懸念されています。株式市場は大荒れですよ。特に保険会社や海運業の株が暴落しています」


確かに、原因不明の天体現象は投資家たちを不安にさせるだろう。潮汐の変化は海運業に直接影響するし、災害リスクの増大を懸念して保険会社の株が売られるのも当然だ。


「このような不確実性の高い状況では、市場は過剰に反応します。行動経済学的に見ても興味深い現象です」


教授の説明を聞きながら、悠真は自分の行動が、世界経済にまで影響を与えていることを改めて実感した。


 ◇ ◇ ◇


一方、美琴も文学部の講義で似たような状況を経験していた。


日本文学史の講義では、老教授が月にまつわる古典作品の話を始めた。


「『竹取物語』では月の世界から使者が来ますが、もし月が2つあったらどうなっていたでしょうね」


教授の冗談めいた問いかけに、学生たちが笑う。美琴は苦笑いを浮かべながら、ノートを取り続けた。


「月は古来より文学作品に登場する重要なモチーフです。『源氏物語』でも『枕草子』でも、月は美しさや儚さの象徴として描かれています」


講義が終わると、クラスメイトたちが美琴に話しかけてきた。


「美琴ちゃん、今夜一緒に2つの月を見に行かない?」


「きっとすごくきれいよ」


「ごめんなさい、今日は用事があって……」


美琴は丁寧に断りながら、心の中では複雑な思いを抱えていた。みんなが興奮している2つの月は、実は悠真がやらかした結果なのだ。


 ◇ ◇ ◇


午後4時ちょうど、大学の正門前で二人は合流した。


「お疲れ様でした」


「美琴こそ。今日は集中できなかっただろ?」


「まあ……少しは」


苦笑いを交わしながら、二人は武器工房タケミツへと向かった。月の問題は重要だが、まずは新しい剣を手に入れなければならない。武器がなければ、レベル上げもままならない。


電車に乗り込むと、乗客たちがスマートフォンを眺めていた。


「見てください」


美琴が自分のスマートフォンを見せる。SNSには早くも月を商売に使った広告が流れていた。


「2つの月の下で、特別な夜を――」


レストランの投稿が、タイムラインに表示されている。


「商魂たくましいな」


「でも、不安がってばかりいるよりはいいかもしれません」


美琴の言葉には一理あった。パニックになるより、現実を受け入れて前に進む方が建設的だ。


15分ほどで目的地に到着した。駅から商店街を歩くこと5分、古い建物が見えてきた。


「武器工房タケミツ」


木製の看板には、達筆な文字でそう書かれている。一見すると普通の刃物店のようだが、探索者の間では知られた名店だった。

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