第34話 パパがお父さんになった日(前編)
♢
パパがいて、ママがいて、私がいた。
小さい頃の私は、本気で「大きくなったらパパと結婚する!」なんて言って、ママが「ダメよ〜」なんて笑って、パパが眉を下げて、照れた顔をするのが大好きだった。
週末は家族で県外までドライブして、写真もいっぱい撮って、私はこの毎日が永遠に続くものだと疑いもしなかった。
でも、いつからだっけ。そんな日常が当たり前じゃなくなったのは。
*
小学校に入学して少しして、パパは休日以外に家にいないことが当たり前になった。朝起きる時も、夜眠る時もパパはいない。
今思うと、パパはその時、昇進したとママと話していた。
最初は泣いて怒った。
「なんでパパいないの!? わたしのこと嫌いになっちゃったの!?」
そう叫ぶたび、ママは優しく、でも苦しそうに言った。
「パパはね、ママとあまねちゃんが不便なくいられるようにお仕事を頑張ってくれているのよ。だからいつもいないの。パパにはちゃんとありがとうって言わないといけないのよ」
その言葉を何度も聞かされて、
私はいつの間にか「寂しい」と言うことをやめた。
パパが帰ってくる少ない時間は宝物だったから。
その数十分のためなら、何日も我慢できた。
——でも、その宝物の時間すら減っていった。
大型連休でも、年末年始でも、パパに会えない日が増えて、家は急に広く、冷たくなった。
ある日、夜中にふと目が覚めた。
体を起こして、壁を見つめてぼーっとしていると誰かが喋っている声が聞こえてきた。よくよく耳を澄ますと、それはパパの声だった。
パパ帰ってきてるんだ!!
そう思った私は、ベッドから勢いよく飛び降りてリビングに超特急で向かっていた。
リビングの扉の取手に手をかけた瞬間。
「———だから口ごたえすんなっつてんだろ!!!!!」
真夜中のリビングに響いていたその声。
耳が信じられなかった。そんな声聞いたことなかった。
扉をそっと開けるとママは頬を押さえて、パパと睨み合っていた。
「口ごたえなんてしてないわ。私は———」
「それを口ごたえって言うんだよ!!!!」
次の瞬間、パパの拳がママの頬を殴った。
時間が止まった。
呼吸もできなくなって、私はリビングの扉をそっと閉めて急いで自分の部屋に戻った。
なんで? なんで? なんで? なんで?
なんでパパはママのことを殴っていたの? なんで喧嘩しているの? なんでママはパパのことを睨んでいるの?
パパとママは仲良しなんじゃないの?
ああ、これはそうか、きっと夢なんだ。悪い夢、悪夢だ。寝ぼけているんだ、私は。
目覚めなくちゃ。こんな夢から。
私は布団を頭から被り、目をぎゅっと瞑った。
次の日、やっぱりパパはいなくて、ママはいつも通りだった。顔が腫れているわけでもないし、目が腫れているわけでもなかった。
あぁ、やっぱり夢だったんだ。
*
でも、それが夢じゃなかったと気づくのに、そう時間はかからなかった。
*
それは唐突に起こった。
その日は確か父の日だった。私は小学生6年生だった。
ママが、パパに一緒にネクタイをあげよう、と言ってくれてネクタイもあげる計画を立てた。
パパ、喜んでくれるかな。
そう思うだけで胸がくすぐったくて、私はそわそわと落ち着きをなくしていた。
ママと一緒にラッピングした箱を見つめながら、何度もにやにやしてしまった。
夜ご飯を食べている時、ママと目を合わせて笑って、机の下からラッピングされた箱を取り出した。パパのために、ママと2人で一生懸命選んだネクタイだ。
「パパいつもありがとう! はい! これはママと私から!!」
パパはプレゼントを受け取ると、その包装を取り、中のネクタイを取り出した。紺色の生地に、小さな銀色の点が散っている。スーツにも、仕事にも合いそうなスタイリッシュなデザイン。
なのに。ネクタイを見るなり、パパの顔が、みるみるうちに真っ赤になっていった。
「なんだこれ…」
低い。聞いたことのない声だった。
「パパ? どうしたの?」
震える声でそう聞くと、パパはネクタイを握りしめて怒鳴った。
「俺の稼いだ金でこんなもの買いやがて!!」
え?
空気が止まる。私は何が起こったのかわからなくて、ポカンとしてしまう。
するとママはすぐに
「あなた、何を言ってるの!」
って言った。その声は怒っているようで、怯えているようで、呆れているようだった。
でも、パパは止まらない。
「俺が毎日毎日苦労して稼いだ金だぞ! それをこんな無駄遣いしやがって! ただでさえ金がないのに…。誰がこんなネクタイ欲しいって言ったんだ!」
パパの言葉は、まるで氷のナイフみたいに、私の胸に突き刺さった。
私の目から、涙がこぼれ落ちた。だって、パパのために、ママと一緒に一生懸命選んだプレゼントだったんだもん。
「ごめん、なさい…」
誰に対する謝罪なのか、私自身わからなかった。
でも、謝らなきゃいけない気がした。そうしないと、もっと酷いことが起こる気がして。
するとママは私を庇ってリビングを出た。
「ごめんね、ママのせいで。ごめんね」
そう言って泣いていた。
私はもう訳がわからなかった。
ただ、ひとつだけわかったのは。
前の優しいパパはもういないってこと。あの夜中の出来事は夢でもなんでもなかったってことに。
*
この日を境に、私の家の日常はガラリと変わってしまった。
*
パパは家に帰ってくるたび、ママや私に暴言を吐いては手をあげて、ひとしきり暴れて満足すると、どこかへふらふらと出掛けて行った。
そんな日常は苦しくて、逃げたくて、泣き出したかった。
でも、それができないのはママがいたからだ。
ママがいたから耐えられた。辛いけど一緒に頑張ろうねって言って、支え合った。
でも、父の日から2ヶ月くらい経った頃、突然母が倒れた。
それは暑い夏の日の火曜日だった。
夕食の準備をしている途中、急に胸を押さえてその場に崩れ落ちた。人生で初めて、自分の手で救急車を呼んだ。
夏の夜の空気を切り裂いていたサイレンの音が、今でも耳の中に残っている。
点滴や色々な機械に繋がれていたママは弱々しくて、涙が出てきそうだった。
お医者さんは、1年ほど入院して治療すれば治る病気だと言っていた。治らない病気かと思ったから、そこは少し安心した。
「大丈夫よ。ママ、すぐ良くなるからね」
ママはそう言って、私の手を握ってくれた。その手は信じられないほど細くなっていて、私はただ頷くことしかできなかった。
パパに連絡したけど、結局パパは病院に来ることはなかった。
病院には来なかったけど、きっとパパはママを助けてくれる。
だって、どんなに仲が悪く立って、どこまで行っても家族だ。助けてくれる。きっと、絶対。
そう、信じていた。
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