第33話 ハンバーグ
1時間くらい経っただろうか。
あたりはすっかり暗くなり、私の体は冷えて、涙も枯れてしまって、もう成那さんは今日は帰ってこないんじゃないかって思い始めた頃。
「———…あ、あまねちゃん…?」
ハッとして顔を上げると、アパートの通路の真ん中で立ち尽くして、困惑した表情を浮かべている成那さんがいた。
「———…成那さんっ!」
気づいたら走り出して、成那さんの胸の中に飛び込んでいた。
成那さんはアルコールとタバコの匂いを纏わせていて、帰るのが遅かった理由が察せられる。
ああ、成那さんの匂いだ、温もりだ。成那さんだ。成那さんだ。成那さんだ。
成那さんは、最初は戸惑っていたけどすぐに私を両腕で抱きしめてくれる。成那さんより15センチくらい小さい私はすっぽりと成那さんの中に収まる。
ずっと我慢していた嗚咽が漏れて、枯れたと思っていた涙もボロボロと溢れてくる。
「大丈夫——…じゃ、ないんだよね。うん、ごめん」
なんで成那さんが謝るの? 私が勝手に来て、勝手に泣いてるだけなのに。
そう言いたかったけど、全部嗚咽に変わってしまって何も言えない。
「とりあえず、家、入ろう? あまねちゃんの体、冷たいよ。ごめんね」
私が小さく頷くと、成那さんは鞄の中から鍵を取り出して扉を開け、私を家の中に入れてくれる。
「ごめっ、なさ、いっ……」
辿々しくそう伝えると、成那さんは私の頭を撫でてくれる。
「謝ることなんてないよ。大丈夫。それよりさ、お腹空かない? 今日ね、帰ってきて食べようと思って朝作っておいたのがあるの。一緒に食べよう?」
成那さんは私をベッドと机の間に座らせるとキッチンの前に立ち、テキパキと料理をし始める。
私はその姿を見て驚いてしまう。
……成那さんが料理してる…。しかも無駄なくテキパキと…。
成那さんのちょっとした成長に感動して、少し元気が出てきた気がする。
でも、それと同時に私がご飯を作ってあげることももうなくなっちゃうかもしれない、と不安に駆られる。
成那さんに言ったら、あまねちゃんのご飯また食べたいよって言ってくれると思うけど、自分でできるようになったんだから、どうしてもの時じゃないと頼んでくれないだろう。
「あまねちゃんにいつも作ってもらってるからさ、いつか私も作りたいなって思って練習したの」
成那さんはそう教えてくれる。
来ておいてあれだけど、どうしてこんなに成那さんは優しくしてくれるんだろう。
きっと成那さんのことだから、困っている人がいたら誰にでも優しく手を伸ばしてあげると思う。
でも、私だから、私のことを特別に思ってくれてるから私だけに用意してくれた優しさであってほしいと思うのは我儘かな。
期待してしまう。期待しても無駄だってわかってるのに。
私の悪いところ。
「お待たせ、できたよ」
成那さんはそう言って、テーブルの上にハンバーグを置いてくれる。
形はすごく綺麗な楕円形で、オーロラソースがかかっていた。
それすらも感動してしまう。
申し訳ないけど、もっと歪な形で焦げ焦げかと思っていたから。
「……いただきます」
ひとくち齧ると肉汁が溢れ出てきて、お肉は柔らかい。ちょうどいい塩胡椒。
「…おいしい」
「ふふっ、よかった」
成那さんはそう言って、自分の分も食べ始める。
実を言うと、誰かに作ってもらったご飯を食べるのなんて久しぶりで、その温かさが胸に沁みて、また涙が溢れてきてしまう。涙をぬぐおうとしても、ぽたぽた落ちてきてしまう。涙腺が壊れたみたいに止まらなかった。
成那さんは私のその姿を見ると、食べる手を止めてティッシュを手に取って涙を拭ってくれる。
それでも私の涙は止まってくれないから、成那さんは拭うのを諦めたのか、ぎゅっと抱きしめてくれる。私は腕を回そうとしたけど、それもできないほど強く抱きしめてくれた。
「ごめん、ごめんね」
「なんっ、で」
成那さんが謝るんですか? 成那さんは何にも悪くないです。悪いのは全部私です。
言いたいことはいっぱいいっぱい出てくるのに、全部声にならない。
すると成那さんは私の言いたいことを感じ取ったのか、言葉を続ける。
「帰ってきたら、玄関であまねちゃんが座り込んでてびっくりした。抱きついてきた時の体が冷たくて、悪いことしちゃったなって」
微かに震えている声。
怒ってもない。呆れてもいない。ただ本気で心配している声。
「寒かったよね。ごめんね。もう大丈夫だから」
その一言でまた、張り詰めていたものが溶けてしまう。
声にならない声が勝手に漏れて、息がひゅうひゅうして自分でどうにもできない。
ただ成那さんに縋ることしかできなくて、自分が無力だってことを突きつけられる。
「——ねえ、何があったか、聞いてもいい?」
目が合う。
成那さんは笑っていなくて、ただ真剣に私だけを見ている。
その視線だけで、全部が崩れ落ちそうになる。
「1人で抱えないで。大人なふり、しなくていいんだよ。私をもっと頼ってよ。私も、いっぱい頼ったんだからさ」
心に突き刺さる。
何も言ってないのにどうして全部見透かしているようなことを言うの。
成那さんに頼られた覚えなんて全くないのに。いつもいつも、私ばっかり頼ってばっかり。
「ゆっくりでいいから、ね?」
成那さんは私の背中を小さく撫でて言った。
そんな優しい声をかけないでよ。壊れちゃうよ。でも、成那さんの前なら壊れてもいい気がした。
その声色は“聞きたい”じゃなくて、“支えたい”の声色だった。
私はぎゅっと成那さんの服を握りしめて、
「……お父さんが…帰ってきて…」
俯いたまま震える声で語り始めた。
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