第21話 私の好きな人

 後夜祭を途中で抜け出して、私は成那さんの家に向かった。


 インターホンを押す前に手鏡でメイクを確認して、手櫛で前髪を整える。今までそんなの全然気にならなかったのに、好きを自覚した今、ちょっとでも成那さんに可愛いって思ってもらいたい。


 きっと前髪もメイクも、全部汗でぐちゃぐちゃになっちゃうだろうけどベッドに行くまでの数分間だけでも、最上級に可愛い私でいたい。


 インターホンを押して、ドアを開ける。


 お邪魔します、と声をかけて中に入ると成那さんは部屋の中ではなくベランダにいた。


 私がいないときも、そうやってベランダで吸ってるんだ。


 成那さんの生活に私が染み付いてるのが嬉しいと思うと同時に申し訳ない思いと、成那さんの部屋の中からこのタバコの匂いがなくなっちゃうのが少し寂しく思う気持ちが生まれる。


 私はベッドの淵に座って成那さんを待つ。


 しばらくして、成那さんはベランダから戻ってきた。


「あれ、あまねちゃん、来てたの? 気が付かなかった」


 成那さんって、こんなにかわいかったっけ?


 私の頭はばかになってしまったのかな。


 成那さんの周りがキラキラしてて、そこだけお昼みたいだ。恋は盲目って言うけど、私は特に盲目なのかもしれない。


 成那さんはキッチンの前に立って何かをしている。


 あーもう、もどかしいなぁ。


 早くこっちに来て、私に触れて欲しいのに。

 私の全部を成那さんで満たして欲しいのに。


 少し前だったら、部屋に入って来た途端に私に触れてくれたのに最近の成那さんは私にすぐ触ってくれない。


「なにやってるんですか?」


「んー? あまねちゃんにお菓子買って来たから用意してるの」


「そうですか…」


 お菓子なんていらないから、早くこっちに来て欲しいのにな。


 すると成那さんは小さなお皿と麦茶が入ったコップを持って、「これ、仕事場でもらって美味しかったんだ〜」なんて呑気なことを言ってこちらに近寄ってくる。


 元彼さんのこと忘れられなくて、辛いんじゃないの?

 私が忘れさせてあげる。私でいっぱいにしてあげる。


 テーブルにお皿とコップを置いたのを見て、手を伸ばして成那さんの腕を掴んだ。

 それから後ろに倒れ込むように勢いを付けて引っ張る。


「うゎ…」


 バランスを崩した成那さんが、私に覆い被さるように倒れ込む。両手をついて踏みとどまった成那さんに閉じ込められるように寝転んだ私は、成那さんの首に腕を回して耳元でとびきりの甘い声をだして




「抱いて」




 と囁く。



「———…え?」



 成那さんの時が止まる。


 まんまるにした成那さんの瞳に私が映る。


「……あ、まねちゃん? どうしたの? なにかあった?」


 そこではっと気づく。


 そっか、成那さんが私を抱く理由はあっても、私が成那さんに「抱いて」とお願いするには理由がないから、理由がなくちゃいけないんだ。


 盲目でばかになってしまった頭を必死に回して、理由を探す。


「———…忘れたい人が、いるんです」


 小さく掠れたような声でそう告げると、成那さんの瞳がより一層開かれて、色が変わった気がした。


「忘れたい人…? だれ? 私の知ってる人?」


 成那さんはすごい剣幕で、そう一気に問いかけてくる。

 ただの理由なのに、こんなに食いついてくるなんて思わなくて困惑してしまう。なんなら、ちょっと怖いくらいだ。


「え…? えっと…」


「まあいいや。だれでも。キス、していい?」


 私が答えるよりも先に、成那さんがそう言う。

 私が小さく頷くと、成那さんと私の唇が重なる。


 すぐに成那さんの舌が侵入して来て、思考が成那さんでいっぱいになる。


 さっきのすごい剣幕の成那さんが気になってたけど、そんなの全部どうでもよくなってしまう。


 羽月ちゃんとあった時の嫌な気持ちが、全部溶けてなくなっていく。その隙間に成那さんが入り込んで、幸せいっぱいになる。


 もっとはやく、成那さんのこと好きだって気づいてたらよかったのになぁ。私、めちゃくちゃ鈍感だなぁ。


 こんなに幸せなんて、思わなかった。

 きっと成那さんは私のこと好きじゃないと思うけど、そんなの関係ない。


 だってきっと、セックスしてる最中は私でいっぱいのはずだから。


 ♢


「それでさ、忘れたい人って誰だったの?」


 ベッドとテーブルの間に座ってお菓子を食べていた成那さんがそう問いかけてくる。


「……元カノです」


 私はベッドの淵に座って、お菓子に手を伸ばしながら淡々と答える。別に隠すことでもないし。


「元カノ?」


「はい。重いって言って、フラれたんです」


「…待って? あまねちゃん、彼女いたの? 私、浮気相手だったってこと!?」


 成那さんがなぜか涙目になりながらそう聞いて来て、ちょっと面白くなってしまう。


「違いますよ。成那さんとセフレになった時にはもう別れてましたよ。…ほら、最初の頃、2ヶ月くらい前に別れた恋人がいたって言ったじゃないですか。その人です」


「そっかぁ…。よかったぁ」


 成那さんは胸を撫で下ろす。


「じゃあ私、未練たらたらなあまねちゃんに手出しちゃったんだ」


「まあ、そうですね…。成那さんのキスの仕方とかが元カノと似てて、重なって、受け入れちゃったんです」


「そっか。———まあ、お互いに忘れられたらいいよね」


「———え?」


 何を言ってるのか、わからなかった。

 なんで成那さんは私がまだ羽月ちゃんのことを好きだと勘違いしてるんだろう。


 否定しようと口を開くと、成那さんが先に声を出す。


「未練たらたらなんでしょ? 私、あまねちゃんが忘れられるまで一緒にいるから」


 そう言われて、私は開いた口を閉じる。


“一緒にいるから”


 その言葉が胸に刺さって、抜けない。

 一緒にいてくれるなら、勘違いしたままでもいいから、って思ってしまう私は悪い子だろうか。


 きっと、神様は笑ってるよね。


「…そう、ですね。お互い、忘れられるといいですね」


 そう言って笑ったけど、私は、成那さんにずっと元彼さんのことを忘れないでほしいって思う。だって、じゃないと私たちが一緒にいる理由がなくなっちゃうから。


 このセフレ関係が終わっちゃったら、きっと私たちはまたお店の店員と常連さんになっちゃうから。


 それなら、成那さんが私のことを好きになってくれなくても、名前のついた関係が欲しいから。

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