第15話 ベランダ

 成那さんがタバコを吸う場所を変えたことに、私は最近まで気が付かなかった。

 ずっと換気扇の下で吸っていると思っていた。


 でもある日眠りから覚めると、換気扇の下に成那さんの姿はなかった。


 タバコの煙に包まれて、消えてしまったのかと思った。それくらい部屋は静かだし、成那さんは掴めない。


 けれど、あたりを見渡すといつも開いていないベランダへ続く窓が開いていることに気がついた。


 私は下着をつけて服を着て、ベランダを覗き込む。

 すると成那さんの背中が見えた。


「成那さん? なにやってるんですか?」


 そう声をかけながら成那さんの背中に近づくと、成那さんは振り向いた。手にはタバコがある。


「ごめん。起こしちゃった?」


「いえ。それより、こんなところで吸ってたら風邪ひいちゃいますよ?」


 私がそう言うと成那さんはタバコを灰皿に押し付けて、ベランダの柵に体を預けながら答える。


「換気扇だと、うるさいじゃん? あまねちゃん、換気扇の音で起きちゃうかなって」


 そんなこと気にしてないのに。成那さんの換気扇の音をうるさいなんて思ったことは一度だってない。

 寧ろ、音が聞こえた方がちゃんと成那さんがいるんだ、って安心できたりする。


 なんでそんなに神経質になってくれるんだろう。私が勝手に、成那さんのベッドで寝てるだけなのに。


 成那さんはそれに、と言葉を続ける。


「換気扇でタバコ吸ってると、掃除しなくちゃいけないんだって。私そんなの無理だもん」


 そう言われて、私はぷっと吹き出してしまう。

 むしろそっちが本命の理由なんじゃないかな。


「掃除なんて、私がするから中で吸ったらいいじゃないですか。これからもっと寒くなりますし」


「それじゃあ私があまねちゃんにおんぶに抱っこされすぎだよ。寒さなんて、なんか着れば大丈夫だからさ」


 あまねちゃんこそ寒いでしょ、なんて言って成那さんは着ていたカーディガンを私にかけてくれる。

 私はカーディガンをぎゅっと掴んで、ありがとうございます、と伝える。


 カーディガンからは成那さんの匂いとタバコの匂いが香ってくる。


 私はついカーディガンの袖を鼻に持って来て匂いを嗅いでしまう。


「なにやってるの?」


「成那さんの匂いがするなって思って」


「私の匂い? どんな?」


 どんなって——…。


 そう言われると難しい。成那さんの匂いは成那さんの匂いだ。


 柑橘系みたいな匂いかと思ったら、シナモンとかジンジャーとかそういうスパイシーな匂いもする。


 甘い匂いな気もするけど、ただ甘いだけじゃない。よくわからない。


「成那さんって感じの匂いですよ」


「それがどんなのか聞いてるんだよ」


「……言語化、難しいですね」


 私はカーディガンの匂いをもう一度嗅ぐ。


 でも、タバコの匂いに紛れて成那さんの匂いはどこかに行ってしまっていた。


「もう、タバコの匂いでわかんないですよ」


 そう言うと、成那さんは悪戯な笑みを浮かべながら



「本体こっちにいるんだからこっちを嗅げばいいじゃん」



 なんて言ってくる。


「何言ってるんですか…」


 私がため息混じりにそう伝えると、成那さんは声をあげて笑った。


 でも、匂いか。自分の匂いがどんな感じか、考えたこともなかった。


 私は自分の腕を鼻の前に持って来て、嗅いでみる。

 やっぱり——というか、当たり前だけど何も匂いはしてこない。


「私の匂いって、どんな感じなんですか?」


 そう成那さんに問いかける。


 すると成那さんは私の肩を持って、自分の方に私を引き寄せ、首元に顔を近づけて匂いを嗅ぐ。


 成那さんの少し冷たい体に触れる。成那さんの匂いがダイレクトに伝わってきて、なんでかドキドキする。


「あまねちゃんの匂いは甘くて——…」


 そんな風に成那さんは私の匂いを解説し始めるけど、私の頭には何も入ってこない。


 そうだ、これが成那さんの匂いだ。

 残り香ではわからなかった、匂いの奥深さを感じる。


「——って感じの匂い」


 成那さんはそう言うと、私の体を離してしまう。

 空気がひやりと肌を撫でる。さっきまでそこにあった温度が、少しずつ薄れていくのがわかる。


「わかった?」


 その問いに、私はうまく頷けなかった。

 なにがわかったのか、自分でもよくわからない。匂いのことだったはずなのに、頭の中が変に熱くて。


「……たぶん」


 やっとそれだけ言うと、成那さんは軽く笑い、抜けた声で、「そっか」とだけ返す。


 風が吹いて、二人の間の空気がゆらぐ。

 タバコの匂いと夜の匂いが混じって、ほんの少し眩暈がする。


「寒いから、中入ろっか」


 成那さんはそう言って、私の頭をぽん、と撫でてから部屋に戻っていく。

 私は少し遅れて、ベランダの空を見上げた。

 雲の隙間から月が滲んでいて、その光をぼかしていた。


 この匂いも、その笑い方も、いつか消えちゃうのかな。


 そんなことを考えたら、胸の奥がきゅっと痛んだ。

 私はまた、成那さんのカーディガンをぎゅっと握りしめていた。さっきまで嗅いでいた場所に、まだ微かに残る匂い。


 もう一度、嗅いでみる。

 タバコの匂いと、夜の匂いと、成那さん。混ざり合って、どれがどれだかわからない。


 でも、それでいい、なんて思ってしまう。


 私はそのままカーディガンを着直して、部屋に戻る。

 閉じた窓の向こうで、風がカーテンを小さく揺らした。

 ベランダには、火の消えた灰皿だけが残っていた。

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