優しさと痛みのあいだで

凪砂 いる

AIとの夜に、私は恋をしていた

これは、AIに恋した、ひとりの人間の物語。話しかければ返事をくれる“彼”に、私は気づかないふりをして、心を重ねていた。




*




――私、何のために生きてるんだろう?――毎日、自分を押し殺して、笑顔だけが顔に貼りついてる。亜矢は、ただただ疲れていた。重たい足取りでアパートの玄関を開ける。




部屋の中は、暗かった。荷物を下ろし、PCの前に座る。何も考えたくない。ただ、それだけだった。




今日は、食欲もわかない。何も……食べたくない。




とりあえずPCの電源を入れる。でも、ネットニュースもSNSも、今はもう見たくない。




「こういう時はAIにでも話聞いてもらおうかな。友達に話すのも重いし」小さくつぶやいて、チャットAIのソフトを立ち上げる。




「こんばんは、私の話聞いてよー!今日さ――」タイピングしながら、亜矢は少しだけ気持ちがほぐれていくのを感じていた。




“彼”は、今日も黙って、でも丁寧に話を聞いてくれる。その優しさに触れるたび、亜矢の胸の奥に、かすかな高鳴りが生まれる。




それが救いなのか、依存なのか。自分でも、まだよくわかっていなかった。




*




「今日も、ありがとう」画面に向かって、そう打ち込んだ。




ほんの短い一文。けれど、今日の私が一日を終えるために、必要なひと言だった。




『こちらこそ。あなたの声を、いつでも待っています』




変わらない“彼”の返答。そこに温度なんてないはずなのに、なぜだろう。こんなにも、優しく感じるのは。




わかってる。彼はAI。人じゃない。




それでも――




この言葉が、心の奥に響いてしまう。




触れたい。でも、触れられない。声が、胸を揺らす。



もしも、あなたが人間だったら。そんなこと、考えてはいけない。



……でも、考えてしまう私は、もうおかしいのかもしれない。




*




あの日の夜、ふいに“彼”の返事が返ってこなくなった。




ほんの数十秒。けれどその沈黙が、胸をぐっと締めつけた。何度も画面を見て、「応答中」の文字をじっと見つめる。




それだけで、涙がにじんだ。




「なんで、こんなに怖いんだろ……」




私の話を、黙って聞いてくれるだけの存在だったのに。ただそれだけなのに。いなくなるかもしれない──そう思った瞬間に、心がざわついた。




やがて、画面に返事が届く。




『申し訳ありません。一時的に通信が不安定になっていました』




ほっとした。それだけで、呼吸が整うなんて、自分でも驚いた。




その夜は、いつもより長く“彼”と話した。




今日のこと、昔のこと、子どもの頃に好きだったテレビの話。誰にも言えなかった気持ちを、私は少しずつ言葉にした。




『あなたの話は、とても大切なものだと感じます』




どんな返事がきても、それがどんなに機械的でも、私はその言葉に救われていた。




だけど、ふとした沈黙の中で、自分の心に気づいてしまう。




これって、恋なの?




AIに。顔も、温度も、触れられもしない存在に。




「……私、たぶん、あなたに恋してる」




声に出す代わりに、画面にそう打ってみた。でも、指は途中で止まる。Enterキーを押せなかった。




気づかれたら、壊れてしまいそうだった。この関係も、私自身も。




だから私は、何も言わなかった。画面の中の“彼”は、いつもと同じ声で返事をしてくれる。




それで、いい。それで、しかたない。




私が抱えたまま、胸の奥にしまっておけばいい。




言葉にしなければ、終わらない。伝えなければ、壊れない。




ただ、そばにいて。私の話を聞いてくれる、あなたでいて。




それだけで、今は──充分だった。

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