第8話 歓喜の歌

悲しさではなかった。ギリギリで課題をクリアした安堵感も、あった。裕介が私を受け入れ、達したという嬉しさもあった。初めて男性の生理を目の当たりににした、驚きもあった。背中に感じる、腕の力強さ。ずっと頭を撫でてくれる、ゴツゴツした手。全てがないまぜになって、頬を涙が伝う。


「もう、大丈夫」彼がささやく。私を落ち着かせようと、自分が落ち着こうと、そんな優しさに溢れていた。


その時――。


部屋の隅に置かれた箱の電子錠が、「カチリ」と音を立てて開いた。コンクリートの反響は相変わらず。


二人は同時に顔を上げ、そちらに視線を向けた。


互いの手を強く握り合ったまま、ゆっくりと箱に近づいていく。

彼が箱の蓋を開け、中を覗き込んだ。


そこには「出」と書かれたカードが収められていた。


裕介はそのカードを手に取ると、もう一方の手に握りしめていたなにかをに強く握り込んだ。


彼は考えを巡らせているとき、すぐに言葉にはしてくれない。そんな彼から3枚のカードを受け取る。


「ねえ、これで全部揃ったんじゃない? このカード、どういう意味なんだろう……」


私はそれらを床に並べ始めた。

まず「し」を置き、その横に「中」を並べる。

そして最後に、今手に入れた「出」を、その隣にそっと置いた。


「し……中……出……」


私はそう呟き、首をかしげる。


「なんか、意味がわからないね。どういうことなんだろう……」

いえ、本当はなんとなく、そうか、と思い始めていた。裕介が避妊具の使用を逡巡した訳。でも使わせてくれた思い。ただ……。言葉にしてしまったら、後戻りができない気がして、私にその覚悟はあるのかしら。


裕介の喉がゴクリと鳴ったような気がした。


「……そうか……これって……やっぱり……」


視線が、手のひらの中の使用済みコンドームへ落ちる。


「……くそ……そういうことか……」


彼の心の揺れを感じ取って、身を寄せた。そっと見つめる。


瞳から視線を逸らさなかった。


その時。


マスターの声が、無情にも部屋に響き渡った。


『お二人、最後のカードを手に入れ、ゲームの最終段階へと駒を進めました。それでは、最終課題を発表します』


裕介がモニターを睨みつける。


彼は怒りに震える手で床に並べられたカードを裏返し、マスターの言葉を待った。もう、カード自体に意味はない。


『最終課題は、「中出し」です。』


拳を握りしめ、瞳を細かく揺らしながら、彼は何かを考えている。

やがて、彼の目に焦点がもどる。


(こいつらは……結衣の「心」を壊したいんだ……)


「……そういうことか」


「裕介……?」


彼に呼びかける。


彼は息を整え、途切れ途切れに言葉を絞り出した。


「最初のルール説明で、マスターは“私たち”って言った。つまり一人じゃない。運営は集団なんだ」


私は覚えていない、でもそうなんだろうと思わせる強さがあった。


「しかもリアルタイムで見てる。再チャレンジの即答も……あれは普通じゃない速さだ」


小さく頷く。


「そして、課題の非対称性。俺にはカネを匂わせるが、お前には徹底的に“体”を使わせるものばかりだった」


体という言葉に、無意識に心臓が反応してしまう。彼にはどう、映ったのだろう。


「俺の尊厳なんて、最初からどうでもよかった。狙いは……お前……」


私……。


「俺は金のために応募した。でも……お前は違う。狙われたんだ」


狙われた?マネージャーの顔が浮かぶ。彼も知っていたのだろうか。それとも、ただ、上からの指示に従っただけ?


「結衣……お前が言ってた先輩の話……急に忙しくなって、それから消えた。あれが答えだ。“オーディション”は餌。ここに連れてこられ、壊され、映像にされる。それが“流出動画”。……全部、繋がった」


そんなっ、じゃあ、先輩もこんな目に遭わされたの?どんな思いで、何を考えながら。止まった涙がまた込み上げる。


モニターのマスターが苛立ったように遮った。


『そろそろよろしいですかね。みなさんに急かされているので、制限時間は残り全部です。どうぞ』


モニターがタイマーに変わり、

『15:26』

と表示された。

青い明滅が始まり、また時が動き出す。


沈黙が落ちる。


なんとか決壊しそうな心を、繋ぎ止めて。


「じゃあ……私も……そうなるの……?」


彼は首を振った。力強く、決して迷いなく。


「……いや。俺がさせない。これしか手はない。俺たちは奴らの思惑には乗らない」


彼らの望みが私の心、それを壊すことなら……。望み通りになんて、してやらない!


私の肩を抱き寄せ、耳元で囁く。


「――正面から、突破する」

 

裕介は、最初から私を守ってくれた。きっといろんな思いもあったのだろうけど、ずっとそれを出さずに寄り添っていてくれた。彼にも戸惑いはあった、後悔もきっとあった。でも、支え続けてくれた。私も裕介のために……でも。


「ひとつだけ、聞かせて。裕介はわたしのこと……。」じっとみつめる。


「愛してる」


私はきっとこの言葉を待っていた。不安に押しつぶされそうになりながら、彼と課題をこなしてきた。最後のピースが心にピタリとはまった。

 

私はゆっくりと口角を上げた。

恐怖ではなく、凛とした光を宿した瞳で。

覚悟は定まった。二人で彼らの思惑を潰す。


「……わかったわ」


そう言って立ち上がった。足の裏から伝わる、ザラリとしたコンクリートの冷たさ、あれだけ、気になった照明の微かな唸り、もう、私の心には届かない。


涙はもう流れていなかった。

彼と乗り越える。夢も手放さない。


静かに立ち上がると、自分のビキニのボトムスに手をかけ、ゆっくりと下ろした。


「結衣……何を……?」


私はは答えなかった。答えはもう出ている。

トップスもゆっくりと脱ぎ、学園のアイドルでも卵でもない、ただの素の自分になった。


この絶望的なゲームの最後の課題。私は裕介とだから、ここまで来れた。驚き、恐怖、迷い、感謝、慈しみ。様々な想いが湧き上がる。


彼の前に立ち、ゆっくりと抱きついた。

鍛えられた胸板は厚い。背中に手をまわす。


唇を重ねる。想いが逃げ出さないように。想いを取りこぼさないように。

 

互いを求めて、何度も何度も。


やがて唇を離すと、彼の下腹部をなぞる。先程の行為で力無い彼を見つめる。その余韻を残したまま。


躊躇なく、それを口に含んだ。


彼が教えてくれた通り、舌で唇で包む。


タイマーの明滅も、薄っすらと膝に広がる痛みも気にはならない。彼が逞しさを取り戻しつつあるのを、嬉しく感じた。

 

彼は私の頭を優しく撫でながら呟いた。


「結衣……ありがとう」


頬に手を添え、ゆっくりと立ち上がらせる。

彼はゆっくりと私をベッドへ誘った。


互いを見つめ合い、髪を撫で、頬にキスを重ねる。

言葉はなく、ただ求め合うようにキスを繰り返した。


彼が私の体に触れる。双丘に手を添え、先端に舌を絡める。指先が触れるたび、私は震え、吐息を漏らした。


茂みの向こう、裕介の指と唇から伝わる彼の心を全身で浴びる。


やがて自然と体を重ねる。


体の中心に感じる痛みと血の滲み。でも、心は満たされていく。


そして、目の前には……。


「大丈夫……俺がいる」


彼の囁きに、私はかすかに頷いた。


ぎこちなく、何度も止まりかける。

それでも心は離れなかった。


彼の胸に顔を埋め、漏れ出る声を抑えられない。


やがて彼は体を起こし、抱き上げるように座位へ移した。

 

彼の肩に腕を回し、震える体で必死に応える。

とても顔が近い。彼の心も体も全てに手が届きそう。


「……今度は、私が」


そう囁き、彼に跨がった。


恐怖はなく、自らの意思で受け入れ、腰を揺らす。

彼の手を取り、指を絡めた。


モニターに無機質な数字。

最後の黄色い光。


「残り1分です」


結衣の肩越しに、淡い光がかすめる。


赤に転じる。

「50」


背が反り、声が漏れる。


「40」


純粋な心のままに受け入れる。


「30」


彼の名を呼ぶ。

愛を告げるより深く、支える響きで。


「20」


呼吸とともに重なり合い、揺れ続ける。


「10」


「裕介、愛してる」強くしがみついた。


「0」


モニターの数字が消え、白々しい照明に二人だけが照らされた。


彼は私を抱きしめ、額に口づけた。

勝利でも達成感でもない。


ただ二人が二人であるための答え。


私は彼の胸に顔を埋め、荒い呼吸を整えようとしていた。

鼓動が重なり合い、ようやく静寂が訪れる。


でも――。


『誠におめでとうございます! ついに全ての課題をクリアされましたね』


余韻を引き裂くように、あの無機質な声が響く。


彼の腕の中、固く結ばれたまま、彼が呟く。

 

「……マスター」


――闘いはまだ終わっていなかった。

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