第2節 常識という影

 ようやく電車を降りた時、肺いっぱいに吸い込んだ外気は、排気ガス混じりの湿った空気だった。それでも悠には、自由の匂いのように思えた。

 足は迷うことなく、駅前の高層ビルへと向かう。ガラスの壁が朝の光を反射し、眩しいほどに輝いている。けれども悠には、その透明な光沢が冷たい鎖のように思えた。


 オフィスに足を踏み入れると、空気が一段と重くのしかかる。

 蛍光灯の冷たい光が天井から降り注ぎ、壁や机を白く照らす。デスクの上には未処理の書類が無造作に積まれ、角が折れたファイルや封筒がごちゃごちゃと並んでいる。パソコンのモニターから漏れる青白い光が、悠の顔を無表情に浮かび上がらせる。


 周囲では、キーボードの乾いた打鍵音がリズムもなく響き、電話の保留音やプリンターの稼働音が重なって、静寂というより、まるで無言の騒音の中にいるようだった。空調の冷気が肌を刺し、書類のインクの匂いとコピー機の紙の匂いが入り混じって鼻をつく。悠は深呼吸をしてみるが、胸は自然と縮こまり、動きがぎこちなくなる。


 朝のミーティングで、課長の声が突然跳ねた。

「岸田くん、この報告書、常識的に考えて、どうしてこうもズレてるんだ?」

 指先で資料を弾くように叩き、紙が小さく震える。言葉の一つ一つが、机を伝わって悠の胸まで響いた。

「前も同じこと、言ったよな。ちゃんと聞いてるのか?」

 眉を吊り上げ、悠をじっと睨む。微かな笑みもない。ただ責める視線だけが、そこにあった。


 悠は資料に視線を落とす。肩が自然と縮み、手のひらにじんわり汗がにじむ。息を整えようとしても、胸がざわつき、言葉が喉の奥で止まる。

 「……はい」

 かろうじて答えた声はかすれ、うなずくしかできなかった。

 心の奥で、苛立ちと屈辱が渦巻く。どうして自分だけが、こんな風に押しつぶされなくてはいけないのか。周囲の同僚も無言で頷くだけで、誰一人として助けてくれない。


 課長は少し間を置き、唇の端をぴくりと動かした。

「まあ……岸田くんなら、次は大丈夫だろうけどな?」

 課長の微かな笑い声が、あたりに響く。

 悠の胸の中で、小さな怒りがこみ上げる。声に出して反論したくても、出せない。抑え込まれたまま、次の指示が降るのをただ待つしかなかった。


 隣の同僚が小さくため息をつく。

「またかよ……」

「……いい加減にしてほしいよな」

「お前のミスをこっちにまでまわすなよ」

「あんまり、課長を苛つかせないでほしいんだけどな」

「課長が苛々をこっちに向けないよう、さっさと済ませようぜ」

 

 それらのつぶやきに、悠は返事もできず視線を逸らす。声を出した瞬間、自分の居場所が消えてしまいそうだった。


 課長はさらに口を開く。

「会社の当たり前を理解して行動する――それが、社会人としての常識だ。わかってるよな、岸田くん?」

 その声には、昭和の頃から変わらぬ『当たり前』の押し付けが滲んでいた。年功序列や空気を重んじる価値観を背負い、異論は許されない、という含みがにじむ。

 全員がうなずく。小さな声で反論しようものなら、すぐに白い目を向けられそうだ。誰もが、理不尽な常識の枠に自分を押し込めている。


 課長は肩を揺らして軽く笑う。

「まあ、今どきの若い者にはちょっと難しいかもしれんがな」

 悠の胸に、むっとした熱がこみ上げる。口に出して言い返せたらどんなに楽だろうと思うのに、声は喉の奥で詰まったままだ。


 昼休み、社食のテーブルで隣に座った後輩が、箸を手でいじりながら小声でつぶやいた。

「俺、こんな会社にいる意味、あるんですかね……。正直、続けられる気がしないんです」


後輩の目は落ち窪み、肩がわずかに震えている。悠は視線を下げ、スプーンで焼飯をすくいながら曖昧に笑った。

「意味……意味は、俺もまだ探してるところだよ」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。後輩が小さく頷き、視線をちらりと悠に向ける。その目には、不安と期待が混ざっていた。

 だが、すぐに頭の奥で、課長の声が再生される。

 

――常識的に行動しろ。


 胸の奥がひりつき、息が詰まる。悠はスプーンを置き、天井を見上げるように視線を漂わせた。後輩は黙ったまま、箸で挟んだ鳥カツを口に運び、肩をすくめる。


「……俺たち、何のために働いてるんですかね?」

 後輩の声は弱々しく、しかし真剣だった。悠は肩越しにその顔をちらりと見て、苦笑を浮かべる。

「さあな。でも……とりあえず、今日を乗り切ろう、ってことから始めるしかないんじゃないかな」


 後輩は小さく息をつき、少しだけ肩の力を抜く。

 悠もまた、胸の奥でまだ課長の声が重く響くのを感じながら、わずかに視線を下げた。

 

――常識的に行動しろ。


 それでも、隣の後輩の存在に、わずかながら救われる気がした。

 言葉にできない共感と、苛立ちの入り混じった昼休みの時間だった。


 午後、ガラス張りの会議室に映る自分の顔を見て、悠は思わずつぶやいた。

「これが……俺か」


 鏡のように映った顔は、どこか他人のように見えた。疲れ切った目。無表情な口元。額の皺は、知らぬ間に刻まれていた。自分の身体なのに、自分でないような感覚――まるで、透明な箱の中に閉じ込められた別人を眺めているようだった。


 胸の奥に、冷たい重みがじわじわと広がる。

 肩は下がりきり、背中は丸まり、手のひらはかすかに震えている。息を整えようと深く吸っても、空気は重く、肺に押し返されるようだった。


 周囲の無言の圧力が、見えない鎖のように体中を締め上げていく。

 声に出せない苛立ち、口にできない疲労感、そして、「こんな自分でいいのか」という自己嫌悪――複数の感情が胸の奥で絡み合い、何かを吐き出さずにはいられないように痛む。


 悠は一瞬、机に頭を伏せてみたい衝動に駆られた。だが、それを許さない空気が部屋を支配している。息を吐くたびに、重苦しい静寂が体内に染み込み、心臓の奥で小さな怒りがくすぶる。

 「俺は、まだ、ここで……耐えるのか? 耐えられるのか?」


 声にならない問いが、胸の奥で反響した。


 夜。帰宅すると、リビングにはあやがいた。テレビの音は小さく、子どもたちはすでに寝室にいる。

「……おかえり」

 ――その声は柔らかいのに、悠の胸には針のように刺さる。


 「今日は……遅かったね」

 「うん……会議が長引いて」

 「会議はいいけど、あなた、無茶してない? 顔、青いわよ」

 「大丈夫。少し疲れてるだけ」


 彩は心配そうに眉を寄せた。

「ねぇ、悠くん。本当は……辞めたいなんて思ってないよね?」


 悠の胸が一瞬固まる。

「……そんなこと、考えてないよ」

 言葉を吐き出しながら、自分でも嘘の味を感じていた。


 彩は小さく息を吐き、諭すように言った。

「会社やめて家族を困らせる夫や父親なんて、考えられないから。子どもだっているし、親や近所の人の手前、どう説明するの? みんな『しっかりしたお父さん』だと思ってるのに……」


 その言葉に押されるように、悠はぽつりとこぼす。

 

「でも最近、息が詰まるんだ」

「……えっ?」

 

 彩は視線を落とし、言葉を選びながら続けた。

「私たち、普通に暮らしてる。それで十分じゃないのかな。家を持って、子どもがいて、毎月お給料が入って……世間から見ても立派にやってると思う。だからね、これからも父親として、夫として、恥ずかしくない生き方をしてほしいの」


『普通』という響きと『恥ずかしくない』という言葉が、悠の胸に重くのしかかる。

 その『当たり前』のために、何かをすり減らしている――そう叫びたくても、声にならない。


「無理はしてもいいと思うの。でも、無茶だけはしないで。あなたが倒れたら、全部崩れてしまうんだから。わかってるよね」


 『無理をしても』という響きが、悠の胸に突き刺さる。

 彼女にとっては、働き続けることが当然で、前提で、揺るぎない『普通』なのだ。


 沈黙……

 子どもたちの寝息だけが、かすかに聞こえてくる。

 

 悠は小さく笑った。

「……分かってる」


 寝室に向かう途中、窓の外を見上げた。夜空の奥に、かすかな薄明が滲んでいた。

 胸の奥には光ではなく、拭いきれない空虚だけが広がっていく。

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